日本院政時代年號列表

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日本自第三十六代孝德天皇即位並建元大化起開始使用年号(日语:元号げんごう Gengō)為其纪年方式,並在文武天皇於701年5月3日(大寶元年三月二十一日)再度恢復使用年號後,一直持續使用年號至今[1]

後白河天皇因即位而改元保元

日本的年號常取中國古籍中的辭句為典故,而改元的原因除天皇即位外,多數出於迷信及牽強附會。因天皇即位而進行的改元通常在天皇即位翌年進行,但有時候也會因為亂世而不在天皇即位翌年改元。自平安时代中期(天德應和年間)起,改元之事均載於改元宸記中,而改元的程序也確立為先由大臣上奏年號勘文,然後天皇於選定會議中決定新年號。日本自醍醐天皇起開始因「辛酉革命」的緣故在辛酉年進行改元(當時為901年,由昌泰四年改元延喜),並自村上天皇起開始因「甲子革令」的緣故在甲子年進行改元(當時為964年,改元康保)。日本自醍醐天皇起也會因災禍等不祥之事而改元(當時為923年,改元延長)。[2]

以下列表僅收錄院政時代[註 1][註 2]啓用的日本年號。以下列表中,各年號的使用期與典故主要出自小學館出版的《日本大百科全書》,而每個年號的典故都分別附上维基文库的文本連結供參考(如有)。

列表

年號 使用期
西曆年月日)
使用期
和曆年月日)
在位天皇 改元理由 典故 參考
來源
寬治 1087年5月11日

1095年1月22日
元年四月初七日[註 3]

八年十二月十四日
堀河天皇 堀河天皇即位 礼记·祭法》:「湯以寬治民而除其虐,文王以文治,武王以武功……此皆有功烈於民者也。」[8][註 4] [10][7]
嘉保 1095年1月23日

1097年1月2日
元年十二月十五日

三年十二月十六日
疱瘡流行 史记·秦始皇本紀》:「嘉保太平。」[11] [12]
永長 1097年1月3日

1097年12月26日
元年十二月十七日

二年十一月二十日
天變
地震
后汉书·光武帝紀下》:「夾輔王室,尊事天子,享國永長,為後世[註 5]法。」[14] [15][13]
承德 1097年12月27日

1099年9月14日
元年十一月二十一日

三年八月二十七日
天變
地震
周易·蠱》:「幹父之蠱,用譽……承以德也。」[16] [17]
康和 1099年9月15日

1104年3月7日
元年八月二十八日

六年二月初九日
地震
疾病
政論》:「四海康和,天下同樂」。[註 6] [19]
長治 1104年3月8日

1106年5月12日
元年二月初十日

三年四月初八日
天變 汉书·賈誼傳》:「建久安之勢,成長治之業。」[20] [21]
嘉承 1106年5月13日

1108年9月8日
元年四月初九日

三年八月初二日[註 7]
彗星 《漢書·禮樂志》:「嘉承天和,伊樂厥福。」[23] [24][22]
鳥羽天皇
天仁 1108年9月9日

1110年7月30日
元年八月初三日

三年七月十二日
鳥羽天皇即位 文選·為賈謐作贈陸機》:「統天,仁風遐揚。」[25] [26]
天永 1110年7月31日

1113年8月24日
元年七月十三日

四年七月十二日
彗星出現 尚書·周書·召誥》:「欲王以小民受天永命。」[27] [28]
永久 1113年8月25日

1118年4月24日
元年七月十三日

六年四月初二日
天變
兵革
疫疾
诗经·小雅·南有嘉魚之什·六月》:「吉甫燕喜,既多受祉。來歸自鎬,我行永久。」[29] [30]
元永 1118年4月25日

1120年5月8日
元年四月初三日

三年四月初九日
天變
疾疫
《周易·比[註 8]》:「比:吉。原筮元永貞,无咎。」[31] [32][34]
保安 1120年5月9日

1124年5月17日
元年四月初十日

五年四月初二日
天變
厄運
旧唐书·音樂三》:「含育九區,保安萬國。」[35] [36]
崇德天皇
天治 1124年5月18日

1126年2月14日
元年四月初三日

三年正月二十一日
崇德天皇即位 太平御览·皇王部一》:「《易纬》曰:『帝者……德配天地……天子者,繼天治物。』」[37] [38]
大治 1126年2月15日

1131年2月27日
元年正月二十二日

六年正月二十八日
疱瘡流行 《太平御覽·皇王部四》:「《河圖挺佐輔》曰:『黃帝修德立義,天下大治。』」[39] [40]
天承 1131年2月28日

1132年9月20日
元年正月二十九日

二年八月初十日
炎旱
天變
《漢書·匡張孔馬傳》:「聖王之自為動靜周旋,奉天承親,臨朝享臣,物有節文,以章人倫。」[41] [42]
長承 1132年9月21日

1135年6月9日
元年八月十一日

四年四月二十六日
疾疫
怪異
《史記·秦始皇本紀》:「長承聖治。群臣嘉德。」[11] [43]
保延 1135年6月10日

1141年8月12日
元年四月二十七日

七年七月初九日
饑饉
疫疾
洪水
《文選·魯靈光殿賦》:「永安寧以祉福,長與大漢而久存。實至尊之所御,保延壽而宜子孫。」[44] [45]
永治 1141年8月13日

1142年5月24日
元年七月初十日

二年四月二十七日
辛酉革命
  • 典論》:「禮樂興于上,頌聲作于下。……永治長,德與年豐。」[46]
  • 晋书·武帝紀》:「見土地之廣,謂萬葉而無虞;睹天下之安,謂千年而永治。」[47]
[48]
近衞天皇
康治 1142年5月25日

1144年3月27日
元年四月二十八日

三年二月二十二日
近衞天皇即位 宋书·後廢帝紀》:「以康治道。」[49] [50]
天養 1144年3月28日

1145年8月11日
元年二月二十三日

二年七月二十一日
甲子革令 《後漢書·郎顗襄楷列傳》:「此天之意也,人之慶也,仁之本也,儉之要也。焉有應天養人,為仁為儉,而不降福者哉[註 9]?」[53] [51][52]
久安 1145年8月12日

1151年2月13日
元年七月二十二日

七年正月二十五日
彗星出現 《晉書·劉頌傳》:「建久安于萬載,垂長世於無窮。」[54][註 10] [56]
仁平 1151年2月14日

1154年12月3日
元年正月二十六日

四年十月二十七日
風水害 《後漢書·郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列傳》:「奮既立節,治[註 11]貴仁平。」[59] [57][58]
久壽 1154年12月4日

1156年5月17日
元年十月二十八日

三年四月二十六日
變異
厄運
抱朴子》:「其業在於全身久壽。」[60] [61]
後白河天皇
保元 1156年5月18日

1159年5月8日
元年四月二十七日

四年四月十九日
後白河天皇即位 颜氏家训·文章》:「以保元吉。」[62][註 12] [63][64]
二條天皇
平治 1159年5月9日

1160年2月17日
元年四月二十日

二年正月初九日
二條天皇即位 《史記·夏本紀》:「天下於是大平治。」[65] [66]
永曆 1160年2月18日

1161年9月23日
元年正月初十日

二年九月初三日
兵亂 《後漢書·文苑列傳》:「馳淳化於黎元,永歷世[註 13]而太平。」[68] [69][67]
應保 1161年9月24日

1163年5月3日
元年九月初四日

三年三月二十八日
疱瘡流行 《尚書·周書·康誥》:「已,汝[註 14]惟小子,乃服惟弘王,應保殷民。」[71] [70][67]
長寬 1163年5月4日

1165年7月13日
元年三月二十九日

三年六月初四日
天變
疱瘡
維城典訓》:「長之寬之,施其功博矣。」 [72]
永萬 1165年7月14日[註 15]

1166年9月22日
元年六月初五日[註 15]

二年八月二十六日
天變
怪異
疾疫
《漢書·嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈傳》:「休徵自至,壽考無疆,雍容垂拱,永永萬年。」[76] [74][75]
六條天皇
仁安 1166年9月23日

1169年5月5日
元年八月二十七日

四年四月初七日
六條天皇即位 毛詩正義·昊天有成命》:「行其寬仁安靜之政,以定天下。……得至於太平。」[77] [78]
高倉天皇
嘉應 1169年5月6日

1171年5月26日
元年四月初八日

三年四月二十日
高倉天皇即位 《漢書·嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈傳》:「天下殷當[註 16],數有嘉應。」[76] [79][80]
承安 1171年5月27日

1175年8月15日
元年四月二十一日

五年七月二十七日
災變
厄會
  • 《尚書正義·洛誥》:「王命予來……承安汝文德之祖[註 17]。」[83]
  • 《尚書正義·洛誥》:「承文王之意,安定此民[註 18]。」[83]
[81][82]
安元 1175年8月16日

1177年8月28日
元年七月二十八日

三年八月初三日
疱瘡流行 《漢書·蕭望之傳》:「為民除害[註 19],安元元。」[86] [84][85]
治承 1177年8月29日

1181年8月24日[註 20]
元年八月初四日

五年七月十三日[註 20]
大極殿火災
天變
《太平御覽·皇王部十二》:「《龍魚河圖[註 21]》曰:『治……文得[註 22]……治承天精。』」[88] [87][85]
安德天皇
養和 1181年8月25日

1182年6月28日
元年七月十四日

二年五月二十六日
安德天皇即位 《後漢書·逸民列傳》:「幸得保終性命[註 23],存神養和。」[90] [89][85]
壽永 1182年6月29日[註 20]

1184年5月26日[註 2]
元年五月二十七日[註 20]

三年四月十五日[註 2]
饑饉日语養和の飢饉
兵革
病事
《詩經·周頌·臣工之什·載見》:「以介眉壽,永言保之,思皇多祜[註 24]。」[29] [4]
後鳥羽天皇
元曆 1184年5月27日

1185年9月8日
元年四月十六日

二年八月十三日
後鳥羽天皇即位 尚書考靈耀》:「天地開闢,元曆紀名。月首甲子,冬至。」[93] [94]

註釋

  1. ^ 院政時代為平安時代後期,此處取1086年(應德三年)為院政時代的開始時間。[3]
  2. ^ 2.0 2.1 2.2 平氏使用「壽永」年號至1185年4月25日(元曆二年/壽永四年三月二十四日)於壇之浦之戰戰敗並滅亡為止[4][5]。此處亦取平氏滅亡當年為院政時代的結束時間、鎌倉時代的開始時間[6]
  3. ^ 《日本年號大觀》作「九日」。[7]
  4. ^ 後鳥羽天皇的年號「文治」也以此句為典故。[9]
  5. ^ 《日本年號大觀》作「代」。[13]
  6. ^ 《政論》實際文本未見此句。[18]
  7. ^ 《日本年號大觀》僅作「八月」。[22]
  8. ^ 比卦為“坤下坎上”[31],《日本大百科全書》誤作“坤上坎下”[32],“坤上坎下”(或“坎下坤上”)者為師卦[33]
  9. ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均作「乎」。[51][52]
  10. ^ 後鳥羽天皇、土御門天皇兩人的年號「建久」也以此句為典故。[55]
  11. ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均作「政」。[57][58]
  12. ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均在「元吉」二字後多出「也」字。[63][64]
  13. ^ 《日本年號大觀》作「代」。[67]
  14. ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均作通假字「女」。[70][67]
  15. ^ 15.0 15.1 《日本大百科全書》於「長寬」條稱1165年7月14日(長寬三年/永萬元年六月初五日)改元永萬[72],《日本年號全書》(日本の元号がわかる事典 Nihon no gengō ga wakaru jiten)與《日本國語大辭典》均從之[73],惟《日本大百科全書》「永萬」條與《日本年號大觀》均誤作1165年7月13日(長寬三年六月初四日;即前一日)已改元永萬[74][75]
  16. ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均誤作「富」。[79][80]
  17. ^ 《日本大百科全書》作「承安汝文祖德」[81],而《日本年號大觀》則作「承安汝文德祖」(即缺「之」字)[82]
  18. ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均在「安定此民」四字後多出「也」字。[81][82]
  19. ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均作「除民害」。[84][85]
  20. ^ 20.0 20.1 20.2 20.3 源平合戰期間,源氏不使用「養和」年號[91],並在1183年10月31日(壽永二年/治承七年十月十四日)獲旨日语寿永二年十月宣旨[92]後方開始使用「壽永」年號[91]
  21. ^ 《日本大百科全書》誤作另一緯書《河圖挺佐輔》[87],《日本年號大觀》則僅作《河圖》[85]
  22. ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均作「治欽文德」。[87][85]
  23. ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均缺「終」字。[89][85]
  24. ^ 《日本大百科全書》作「祐」。[4]

參考資料

  1. ^ 森本 1933,第3, 160頁.
  2. ^ 森本 1933,第3, 7-8, 10-12, 14, 15, 118頁.
  3. ^ 日本国語大辞典. 小學館. [2021-10-03]. (原始内容存档于2021-11-01). 白河、鳥羽、後白河上皇三代の院政が行なわれた時代の応徳三年(一〇八六)から建久三年(一一九二)までの約一〇〇年間が中心となるが。 
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 小學館 1994〔天皇〕安徳(あんとく)、後鳥羽(ごとば)〔改元理由〕飢饉(ききん)、兵革、病事による〔改元年月日〕養和(ようわ)2年(1182)5月27日寿永と改元、寿永3年(1184)4月16日元暦(げんりゃく)と改む、平氏は翌年滅亡するまで寿永を使用〔出典〕『詩経』周頌載見(しゅうしょうさいけん)篇の「以介眉寿永言保之、思皇多祐」による.
  5. ^ 日本国語大辞典. 小學館. [2021-09-28]. (原始内容存档于2021-01-18). 元暦二年(一一八五)三月二四日、長門国(山口県)赤間関(下関市)壇ノ浦で行なわれた源平最後の合戦。平氏は源義経の率いる源氏の軍に敗れ、安徳天皇は二位尼と共に入水し、平教盛、知盛ら一族の多くも入水あるいは戦死、宗盛・建礼門院らは生け捕りとなり、平氏は滅亡。 
  6. ^ 日本国語大辞典. 小學館. [2021-10-10]. (原始内容存档于2021-10-19). 源頼朝が鎌倉に政権を樹立した文治元年(一一八五)から北条高時の滅亡した元弘三年(一三三三)までの約一五〇年間の時代。 
  7. ^ 7.0 7.1 森本 1933,第206頁.
  8. ^ 戴聖.   祭法. 维基文库, 23. 
  9. ^ 小學館 1994〔天皇〕後鳥羽(ごとば)〔改元理由〕火災、地震、兵革による〔改元年月日〕元暦(げんりゃく)2年(1185)8月14日文治と改元、文治6年(1190)4月11日建久(けんきゅう)と改む〔出典〕『礼記(らいき)』祭法の「湯以寛治民、而除其虐、文王以文治」による.
  10. ^ 小學館 1994〔天皇〕堀河(ほりかわ)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕応徳(おうとく)4年(1087)4月7日寛治と改元、寛治8年(1094)12月15日嘉保(かほう)と改む〔出典〕『礼記(らいき)』祭法の「湯以寛治民、而除其虐、文王以文治、武王以武功、此皆有功烈於民者也」による.
  11. ^ 11.0 11.1 司馬遷.   秦始皇本紀. 维基文库, 6. 
  12. ^ 小學館 1994〔天皇〕堀河(ほりかわ)〔改元理由〕疱瘡(ほうそう)の流行による〔改元年月日〕寛治(かんじ)8年(1094)12月15日嘉保と改元、嘉保3年(1096)12月17日永長(えいちょう)と改む〔出典〕『史記』巻6始皇本紀の「嘉保太平」による.
  13. ^ 13.0 13.1 森本 1933,第207頁.
  14. ^ 范曄.   光武帝紀下. 维基文库, 1下. 
  15. ^ 小學館 1994〔天皇〕堀河(ほりかわ)〔改元理由〕天変、地震による〔改元年月日〕嘉保(かほう)3年(1096)12月17日永長と改元、永長2年(1097)11月21日承徳(じょうとく)と改む〔出典〕『後漢書(ごかんじょ)』巻1光武帝(こうぶてい)紀の「夾輔王室、尊事天子、享国永長、為後世法」などによる.
  16. ^   . 维基文库, 18. 
  17. ^ 小學館 1994〔天皇〕堀河(ほりかわ)〔改元理由〕天変、地震による〔改元年月日〕永長(えいちょう)2年(1097)11月21日承徳と改元、承徳3年(1099)8月28日康和(こうわ)と改む〔出典〕『易経』蠱卦(こか)の「幹父之蠱、用誉承以徳也」によるという.
  18. ^ 崔寔.   政論. 维基文库. 
  19. ^ 小學館 1994〔天皇〕堀河(ほりかわ)〔改元理由〕地震、疾病による〔改元年月日〕承徳(じょうとく)3年(1099)8月28日康和と改元、康和6年(1104)2月10日長治(ちょうじ)と改む〔出典〕『崔寔(さいしょう)政論』の「四海康和、天下同楽」によるという.
  20. ^ 班固.   賈誼傳. 维基文库, 48. 
  21. ^ 小學館 1994〔天皇〕堀河(ほりかわ)〔改元理由〕天変による〔改元年月日〕康和(こうわ)6年(1104)2月10日長治と改元、長治3年(1106)4月9日嘉承(かしょう)と改む〔出典〕『漢書(かんじょ)』巻48賈誼(かぎ)伝の「建久安之勢、成長治之業」による.
  22. ^ 22.0 22.1 森本 1933,第210頁.
  23. ^ 班固.   禮樂志. 维基文库, 22. 
  24. ^ 小學館 1994〔天皇〕堀河(ほりかわ)、鳥羽(とば)〔改元理由〕彗星(すいせい)による〔改元年月日〕長治(ちょうじ)3年(1106)4月9日嘉承と改元、嘉承3年(1108)8月3日天仁(てんにん)と改む〔出典〕『漢書(かんじょ)』巻22礼楽志の「嘉承天和、伊楽厥福」による.
  25. ^ 潘岳.   為賈謐作贈陸機. 维基文库, 24. 
  26. ^ 小學館 1994〔天皇〕鳥羽(とば)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕嘉承(かしょう)3年(1108)8月3日天仁と改元、天仁3年(1110)7月13日天永(てんえい)と改む〔出典〕『文選(もんぜん)』巻6の「統天仁風遐揚」による.
  27. ^   召誥. 维基文库. 
  28. ^ 小學館 1994〔天皇〕鳥羽(とば)〔改元理由〕彗星(すいせい)の出現による〔改元年月日〕天仁(てんにん)3年(1110)7月13日天永と改元、天永4年(1113)7月13日永久(えいきゅう)と改む〔出典〕『書経』召誥(しょうこう)の「欲王以小民受天永命」による.
  29. ^ 29.0 29.1   六月. 维基文库. 
  30. ^ 小學館 1994〔天皇〕鳥羽(とば)〔改元理由〕天変、兵革、疫疾などによる〔改元年月日〕天永(てんえい)4年(1113)7月13日永久と改元、永久6年(1118)4月3日元永(げんえい)と改む〔出典〕不明、『詩経』小雅(しょうが)、南有嘉魚之什(なんゆうかぎょのじゅう)に「吉甫燕喜、既多受祉、来帰自鎬、我行永久」とある.
  31. ^ 31.0 31.1   . 维基文库, 8. 
  32. ^ 32.0 32.1 小學館 1994〔天皇〕鳥羽(とば)〔改元理由〕天変、疾疫による〔改元年月日〕永久(えいきゅう)6年(1118)4月3日元永と改元、元永3年(1120)4月10日保安(ほうあん)と改む〔出典〕不明、『易経』坤(こん)上坎(かん)下に「比吉原筮元永貞、无咎」とある.
  33. ^   . 维基文库, 7. 
  34. ^ 森本 1933,第212頁.
  35. ^ 劉昫.   音樂三. 维基文库, 30. 
  36. ^ 小學館 1994〔天皇〕鳥羽(とば)、崇徳(すとく)〔改元理由〕天変、厄運による〔改元年月日〕元永(げんえい)3年(1120)4月10日保安と改元、保安5年(1124)4月3日天治(てんじ)と改む〔出典〕不明、『旧唐書(くとうじょ)』巻30音楽志に「含育九区保安万国」とある.
  37. ^ 皇甫謐.   皇王部一. 维基文库, 76. 
  38. ^ 小學館 1994〔天皇〕崇徳(すとく)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕保安(ほうあん)5年(1124)4月3日天治と改元、天治3年(1126)1月22日大治(だいじ)と改む〔出典〕『易緯(えきい)』の「帝者徳配天地、天子者継天治物」によるという.
  39. ^ 皇甫謐.   皇王部四. 维基文库, 79. 
  40. ^ 小學館 1994〔天皇〕崇徳(すとく)〔改元理由〕疱瘡(ほうそう)の流行による〔改元年月日〕天治(てんじ)3年(1126)1月22日大治と改元、大治6年(1131)1月29日天承(てんしょう)と改む〔出典〕『河図挺佐輔(かとていさほ)』の「黄帝修徳立義、天下大治」による.
  41. ^ 班固.   匡張孔馬傳. 维基文库, 81. 
  42. ^ 小學館 1994〔天皇〕崇徳(すとく)〔改元理由〕炎旱(えんかん)、天変による〔改元年月日〕大治(だいじ)6年(1131)1月29日天承と改元、天承2年(1132)8月11日長承(ちょうしょう)と改む〔出典〕『漢書(かんじょ)』巻81匡衡(きょうこう)伝の「聖王之自為、動静周旋、奉天承親、臨朝享臣、物有節文、以章人倫」による.
  43. ^ 小學館 1994〔天皇〕崇徳(すとく)〔改元理由〕疾疫、怪異による〔改元年月日〕天承(てんしょう)2年(1132)8月11日長承と改元、長承4年(1135)4月27日保延(ほうえん)と改む〔出典〕『史記』巻6の「長承聖治、群臣嘉徳」による.
  44. ^ 王延壽.   魯靈光殿賦. 维基文库, 11. 
  45. ^ 小學館 1994〔天皇〕崇徳(すとく)〔改元理由〕飢饉(ききん)、疫疾、洪水による〔改元年月日〕長承(ちょうしょう)4年(1135)4月27日保延と改元、保延7年(1141)7月10日永治(えいじ)と改む〔出典〕『文選(もんぜん)』巻3魯霊光殿賦の「永安寧以祉福、長与大漢而久存、実至尊之所御、保延寿而宜子孫」による.
  46. ^ 曹丕.   典論. 维基文库, 8. 
  47. ^ 房玄齡.   武帝紀. 维基文库, 3. 
  48. ^ 小學館 1994〔天皇〕崇徳(すとく)、近衛(このえ)〔改元理由〕辛酉(しんゆう)革命による〔改元年月日〕保延(ほうえん)7年(1141)7月10日永治と改元、永治2年(1142)4月28日康治(こうじ)と改む〔出典〕『魏文典論(ぎぶんてんろん)』の「礼楽興於上、頌声作於下、永治長徳、与年豊」、『晋書(しんじょ)』武帝紀の「見土地之広、謂万葉而無虞、覩天下之安、謂千年而永治」による.
  49. ^ 沈約.   後廢帝紀. 维基文库, 9. 
  50. ^ 小學館 1994〔天皇〕近衛(このえ)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕永治(えいじ)2年(1142)4月28日康治と改元、康治3年(1144)2月23日天養(てんよう)と改む〔出典〕『宋書(そうじょ)』の「以康治道」によるという.
  51. ^ 51.0 51.1 小學館 1994〔天皇〕近衛(このえ)〔改元理由〕甲子(かっし)革令による〔改元年月日〕康治(こうじ)3年(1144)2月23日天養と改元、天養2年(1145)7月22日久安(きゅうあん)と改む〔出典〕『後漢書(ごかんじょ)』巻60郎顗(ろうがい)伝の「此天之意也、人之慶也、仁之本也、倹之要也、焉有応天養人、為仁為倹、而不降福者乎」による.
  52. ^ 52.0 52.1 森本 1933,第217頁.
  53. ^ 范曄.   郎顗襄楷列傳. 维基文库, 30下. 
  54. ^ 房玄齡.   劉頌傳. 维基文库, 46. 
  55. ^ 小學館 1994〔天皇〕後鳥羽(ごとば)、土御門(つちみかど)〔改元理由〕明年が三合厄、地震・異変による〔改元年月日〕文治(ぶんじ)6年(1190)4月11日建久と改元、建久10年(1199)4月27日正治(しょうじ)と改む〔出典〕『呉志』巻7の「安国和民建久長之計」、『晋書(しんじょ)』巻46劉頌(りゅうしょう)伝の「建久安於万歳、垂長世於無窮」による.
  56. ^ 小學館 1994〔天皇〕近衛(このえ)〔改元理由〕彗星(すいせい)の出現による〔改元年月日〕天養(てんよう)2年(1145)7月22日久安と改元、久安7年(1151)1月26日仁平(にんぺい)と改む〔出典〕『晋書(しんじょ)』巻46劉頌(りゅうしょう)伝の「建久安於万載、垂長世於無窮」による.
  57. ^ 57.0 57.1 小學館 1994〔天皇〕近衛(このえ)〔改元理由〕風水害による〔改元年月日〕久安(きゅうあん)7年(1151)1月26日仁平と改元、仁平4年(1154)10月28日久寿(きゅうじゅ)と改む〔出典〕『後漢書(ごかんじょ)』巻61孔奮(こうふん)伝の「奮既立節、政貴仁平」による.
  58. ^ 58.0 58.1 森本 1933,第218頁.
  59. ^ 范曄.   郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列傳. 维基文库, 31. 
  60. ^ 葛洪.   抱朴子. 维基文库, 8. 
  61. ^ 小學館 1994〔天皇〕近衛(このえ)、後白河(ごしらかわ)〔改元理由〕変異、厄運による〔改元年月日〕仁平(にんぺい)4年(1154)10月28日久寿と改元、久寿3年(1156)4月27日保元(ほうげん)と改む〔出典〕『抱朴子(ほうぼくし)』内篇巻8の「其業在於全身久寿」による.
  62. ^ 顏之推.   文章. 维基文库, 4. 
  63. ^ 63.0 63.1 小學館 1994〔天皇〕後白河(ごしらかわ)、二条(にじょう)〔改元理由〕後白河天皇の即位による〔改元年月日〕久寿(きゅうじゅ)3年(1156)4月27日保元と改元、保元4年(1159)4月20日平治(へいじ)と改む〔出典〕『顔氏(がんし)家訓』文章篇の「以保元吉也」による.
  64. ^ 64.0 64.1 森本 1933,第219頁.
  65. ^ 司馬遷.   夏本紀. 维基文库, 2. 
  66. ^ 小學館 1994〔天皇〕二条(にじょう)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕保元(ほうげん)4年(1159)4月20日平治と改元、平治2年(1160)1月10日永暦(えいりゃく)と改む〔出典〕『史記』巻2夏本紀の「天下於是大平治」による.
  67. ^ 67.0 67.1 67.2 67.3 森本 1933,第220頁.
  68. ^ 范曄.   文苑列傳. 维基文库, 80下. 
  69. ^ 小學館 1994〔天皇〕二条(にじょう)〔改元理由〕兵乱による〔改元年月日〕平治(へいじ)2年(1160)1月10日永暦と改元、永暦2年(1161)9月4日応保(おうほう)と改む〔出典〕『後漢書(ごかんじょ)』巻110辺譲伝の「馳淳化於黎元、永歴世而太平」による.
  70. ^ 70.0 70.1 小學館 1994〔天皇〕二条(にじょう)〔改元理由〕疱瘡(ほうそう)の流行による〔改元年月日〕永暦(えいりゃく)2年(1161)9月4日応保と改元、応保3年(1163)3月29日長寛(ちょうかん)と改む〔出典〕『書経』康誥(こうこう)の「已女惟小子、乃服惟弘王、応保殷民」による.
  71. ^   康誥. 维基文库. 
  72. ^ 72.0 72.1 小學館 1994〔天皇〕二条(にじょう)〔改元理由〕天変、疱瘡(ほうそう)による〔改元年月日〕応保(おうほう)3年(1163)3月29日長寛と改元、長寛3年(1165)6月5日永万(えいまん)と改む〔出典〕『維城典訓』の「長之寛之、施其功博矣」によるという.
  73. ^ 永万. Kotobank. [2021-09-29]. (原始内容存档于2019-04-03). 1165年(長寛3年)6月5日改元。……天変や疾疫が続出したため長寛三年(一一六五)六月五日改元。 
  74. ^ 74.0 74.1 小學館 1994〔天皇〕二条(にじょう)、六条(ろくじょう)〔改元理由〕天変、怪異、疾疫などによる〔改元年月日〕長寛(ちょうかん)3年(1165)6月4日永万と改元、永万2年(1166)8月27日仁安(にんあん)と改む〔出典〕『漢書(かんじょ)』巻64王褒伝の「休徴自至、寿考無疆、雍容垂拱、永永万年」による.
  75. ^ 75.0 75.1 森本 1933,第221頁.
  76. ^ 76.0 76.1 班固.   嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈傳. 维基文库, 64下. 
  77. ^ 孔穎達.   昊天有成命. 维基文库, 19. 
  78. ^ 小學館 1994〔天皇〕六条(ろくじょう)、高倉(たかくら)〔改元理由〕六条天皇の即位による〔改元年月日〕永万(えいまん)2年(1166)8月27日仁安と改元、仁安4年(1169)4月8日嘉応(かおう)と改む〔出典〕『毛詩(もうし)正義』の「行寛仁安静之政、以定天下、得至於太平」による.
  79. ^ 79.0 79.1 小學館 1994〔天皇〕高倉(たかくら)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕仁安(にんあん)4年(1169)4月8日嘉応と改元、嘉応3年(1171)4月21日承安(しょうあん)と改む〔出典〕『漢書(かんじょ)』巻64王褒伝の「天下殷富、数有嘉応」による.
  80. ^ 80.0 80.1 森本 1933,第222頁.
  81. ^ 81.0 81.1 81.2 小學館 1994〔天皇〕高倉(たかくら)〔改元理由〕災変、厄会による〔改元年月日〕嘉応(かおう)3年(1171)4月21日承安と改元、承安5年(1175)7月28日安元(あんげん)と改む〔出典〕『書経』洛誥(らくこう)の「王命予来、承安汝文祖徳」の正義「承文王之意、安定此民也」による.
  82. ^ 82.0 82.1 82.2 森本 1933,第223頁.
  83. ^ 83.0 83.1 孔穎達.   卷第十五. 维基文库, 15. 
  84. ^ 84.0 84.1 小學館 1994〔天皇〕高倉(たかくら)〔改元理由〕疱瘡(ほうそう)の流行による〔改元年月日〕承安(しょうあん)5年(1175)7月28日安元と改元、安元3年(1177)8月4日治承(じしょう)と改む〔出典〕『漢書(かんじょ)』の「除民害安元元」による.
  85. ^ 85.0 85.1 85.2 85.3 85.4 85.5 85.6 森本 1933,第224頁.
  86. ^ 班固.   蕭望之傳. 维基文库, 78. 
  87. ^ 87.0 87.1 87.2 小學館 1994〔天皇〕高倉(たかくら)、安徳(あんとく)〔改元理由〕大極(だいごく)殿の火災、天変による〔改元年月日〕安元(あんげん)3年(1177)8月4日治承と改元、治承5年(1181)7月14日養和(ようわ)と改む〔出典〕『河図挺佐輔(かとていさほ)』の「治欽文徳、治承天精」による.
  88. ^ 皇甫謐.   皇王部十二. 维基文库, 87. 
  89. ^ 89.0 89.1 小學館 1994〔天皇〕安徳(あんとく)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕治承(じしょう)5年(1181)7月14日養和と改元、養和2年(1182)5月27日寿永(じゅえい)と改む〔出典〕『後漢書(ごかんじょ)』巻83逸民伝・台佟(たいとう)の「幸得保性命、存神養和」による.
  90. ^ 范曄.   逸民列傳. 维基文库, 83. 
  91. ^ 91.0 91.1 日本の元号がわかる事典. 讲谈社. [2021-09-28]. (原始内容存档于2021-09-29). 源頼朝(よりとも)ら源氏方は、養和年間から引き続き、1183年まで治承(じしょう)の元号を使用した。 
  92. ^ 國史大系 14. 經濟雜誌社. 1901: 145. doi:10.11501/991104. 東海東山諸國年貢。神社佛寺並王臣家領莊園如元可隨領家之由。被下宣旨。依賴朝申行也。 
  93. ^ 孫瑴.   古微書. 维基文库, 2. 
  94. ^ 小學館 1994〔天皇〕後鳥羽(ごとば)(安徳)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕寿永(じゅえい)3年(1184)4月16日元暦と改元、元暦2年(1185)8月14日文治(ぶんじ)と改む〔出典〕『尚書考霊耀(しょうしょこうれいよう)』の「天地開闢、元暦紀名、月首甲子、冬至」によるという.

參考書籍

參見