谷口尚真
日本海軍大將
谷口尚真(たにぐち なおみ、1870年4月17日—1941年10月30日),日本的海軍軍人。第18任連合艦隊司令長官、第14任海军軍令部長,海軍大将军衔。海軍良識派的代表,被称为提督。
谷口 尚真 | |
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个人资料 | |
出生 | 大日本帝国广岛县广岛市田中町 | 1870年4月17日
逝世 | 1941年10月30日 | (71歲)
军事背景 | |
服役 | 日本海军 |
服役时间 | 1894 - 1933 |
军衔 | 海軍大将 |
人物・来歴
略歴
广岛县广岛市田中町(現中区田中町)出身。父亲事旧广岛藩士。1892年海軍兵学校毕业(19期)。同期的有百武三郎等人。1894年在巡洋舰「高雄号」服役,参加日清战争。1902年海軍大学校(甲種)毕业。1904年晋升少佐,任軍令部参謀,参与日俄战争的海軍作战计划制定。1921年,晋升中将。1923年,担任海軍兵学校校長。1926年至1929年任吴镇守府司令長官。1928年,晋升海军大将。同年,就任第18代連合艦隊司令長官。1930年,围绕伦敦海军裁军会议,海軍开始分裂为舰队派和条约派,同年加藤宽治辞职后接任海軍軍令部長。在無条約派(艦隊派)占据大勢以及青年将校和预备役将官的反对下,条約派[1]的谷口顶住压力批准了裁军条约,被认为是海军明智派的人物。1933年,海相大角岑生在伏见宫博恭王支持下清洗条约派,谷口被編入预备役。
人物
谷口尚真生性严谨,被称为「海军的乃木希典」。他担任第二艦隊司令長官時代,因为过分的谨严沉默,参謀長米内光政给他写了个「水至清则无鱼」(河の水 魚棲むほどの 清さかな)的条幅,谷口笑着说:“谢谢忠告”。[2][3]。他的著作有《大海軍发展秘史》。妻子是柳楢悦之女,生有两子,为海軍少佐。
大佐以后補職
注释
荣勋
- 位階
- 1894年(明治27年)10月22日 - 正八位[1]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 從七位[2]
- 1907年(明治40年)11月30日 - 正六位[3][4]
- 1913年(大正2年)2月10日 - 從五位[3][5]
- 1918年(大正7年)1月30日 - 正五位[3][6]
- 1921年(大正10年)12月28日 - 從四位[3][7]
- 1925年(大正14年)10月15日 - 正四位[3][8]
- 1928年(昭和3年)4月16日 - 従三位[3]
- 1931年(昭和6年)5月1日 - 正三位[3]
- 1941年(昭和16年)10月31日 - 從二位[3][9]
- 勋章等
引用
- ^ 『官報』第3397号「叙任及辞令」1894年10月23日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 3.13 3.14 3.15 3.16 3.17 故海軍大将谷口尚真位階追陞ノ件. 亞洲歷史資料中心 (日语).
- ^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。
- ^ 『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。
- ^ 『官報』第1647号「叙任及辞令」1918年1月31日。
- ^ 『官報』第2824号「叙任及辞令」1921年12月29日。
- ^ 『官報』第3995号「叙任及辞令」1925年12月17日。
- ^ 『官報』第4448号「叙任及辞令」1941年11月5日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
参考文献
- 池田清『海軍と日本』中公新書 ISBN 4-12-100632-1
- 『異色の提督 百武源吾』同刊行会
- 上原光晴『落下傘隊長堀内海軍大佐の生涯』光人社NF文庫 ISBN 978-4-7698-2686-6
- 新名丈夫『沈黙の提督 井上成美 真実を語る』新人物文庫 ISBN 978-4-404-03718-3
- 杉本健『海軍の昭和史』文芸春秋社
- 実松譲『新版 米内光政』光人社
- 吉田俊雄『五人の海軍大臣』文春文庫 ISBN 4-16-736002-0
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版 ISBN 4-8295-0003-4
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会
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