萤之光》(日语:蛍の光ほたるのひかり Hotaru no Hikari)是改编自苏格兰民谣《友谊地久天长》(Auld Lang Syne)的日本歌曲,作词者是稻垣千颖

蛍の光

歌名《萤之光》,语出中国成语“囊萤映雪”(日语:蛍雪の功,けいせつのこう)。“囊萤”是指晋代车胤少时家贫,捕捉萤火虫照明读书的故事;“映雪”是指晋代孙康冬天利用雪的反光读书的故事;两则故事用以形容苦学不倦。

2006年(平成18年),文化厅日本PTA全国协议会日语日本PTA全国協議会将其评选为“日本百首歌曲选日语日本の歌百選”之一。[1]


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 ほ た る の ひ か ー り ま ど の ゆ ー き
 ふ み よ む つ き ー ひ か さ ね つ ー ゝ
 い つ し か と し ー も す ぎ の と ー を
 あ け て ぞ け さ ー は わ か れ ゆ ー く
}
>>
}

概要

明治14年(1881年)成为寻常小学校的唱歌教材,编入小学唱歌集初编中。[2]明治28年(1895年)日本领台后也成为台湾初等教育的唱歌教材。

1941年12月,大日本帝国英美宣战,英美音乐在日本被禁,但《萤之光》被排除在禁令之外,因为它被日本化了,此外还有《庭之千草》等歌曲亦未被禁止。[3]

后在日本只唱第1、2段,因第3、4段歌词的爱国主义内容而不再教唱。战后在台湾则从萤之光,改为相同曲调、中文歌词的“骊歌”。

歌词

原版

明治14年(1881年)刊载于〈小学唱歌集初编〉的歌词如下。

日文歌词 日语读法 中译可演唱版本(仅前二段)
1 蛍の光、窓の雪、
書読む月日、重ねつゝ、
何時しか年も、すぎの戸を、
開けてぞ今朝は、別れ行く。
ほたるのひかり、まどのゆき、
ふみよむつきひ、かさねつゝ、
いつしかとしも、すぎのとを、
あけてぞけさは、わかれゆく。
夏月囊萤,微光书明 冬日寒窗映雪

饱览卷卷,日日月月 总感绵延不绝

光阴荏苒,不觉不知 恍悟白驹过隙

终至今日,将开杉门 去与同窗话别

2 止まるも行くも、限りとて、
互に思ふ、千万の、
心の端を、一言に、
幸くと許り、歌ふなり。
とまるもゆくも、かぎりとて、
かたみにおもふ、ちよろづの、
こゝろのはしを、ひとことに、
さきくとばかり、うたふなり。
天涯比邻,海内知己 一别劳燕分飞

彼此相惜,千万相思 不舍深情厚谊

百感交集,难以分释 我心化作此曲

且在今日,诸君共祈 只愿平安顺利

3 筑紫の極み、陸の奥、
海山遠く、隔つとも、
その真心は、隔て無く、
一つに尽くせ、国の為。
つくしのきわみ、みちのおく、
うみやまとほく、へだつとも、
そのまごころは、へだてなく、
ひとつにつくせ、くにのため。
4 千島の奥も、沖繩も、
八洲の内の、護りなり、
至らん国に、勲しく、
努めよ我が兄、恙無く。
ちしまのおくも、おきなはも、
やしまのうちの、まもりなり。
いたらんくにに、いさおしく、
つとめよわがせ、つゝがなく。

改编

第4段歌词在日本领土扩张后,文部省做过以下的修改[4]

  • 千島の奥も 沖縄も 八洲の外の 守りなり(明治初期的版本)
  • 千島の奥も 沖縄も 八洲の内の 守りなり桦太千岛交换条约琉球处分后)
  • 千島の奥も 台湾も 八洲の内の 守りなり日清战争后)
  • 台湾の果ても 樺太も 八洲の内の 守りなり日俄战争后)

应用

  • 毕业典礼。
  • NHK红白歌唱大赛》节目最后的合唱(从第四届开始,第十四届除外)。曾演唱一二段现仅演唱第1段。
  • 日本职棒阪神虎球迷在对方选手退场时合唱第1段。
  • 公共设施、商业设施在开放时间、营业时间即将结束时播放。
  • 黑泽明导演电影《丑闻》中一个醉酒男人在圣诞晚会的酒馆里开始唱这首歌,听到歌曲的人们逐渐向酒馆中央靠拢,同声歌唱,许多人开始哭泣[5]

仅使用旋律

  • 过去,青函渡轮出港时会播放该曲目。在连接青森站函馆站的青函渡轮上,每次出港时都会响起《萤之光》的旋律。 1941年,据说与美英的战争不可避免,在飞鸾号工作的大场良平开始在起航时播放唱片,以缓解乘客的焦虑。他主要选择当时的流行歌曲。五月的一天,下午晚些时候,当船驶离港口时,他随意播放了《萤之光》。乘客们听到这首歌后都抽泣起来,自此开始,每次青函渡轮出港都会播放这首歌曲。战争期间,因日本军方指示该歌曲“不适合给出征兵士送行”曾一度遭停播。战后,随着洞爷号服役,这首歌又重新在青函渡船中播放[6]。1954年,洞爷号带着1337人在台风中沉没,《萤之光》继续在其他渡船上播放。20世纪70年代,曾有人提议用一些轻快的乐曲替换掉《萤之光》以吸引年轻人, 但它依旧播放,直到1988年,青函渡轮迎来了它的末班船, 乘客们伴着《萤之光》的旋律挥手、欢呼[7]
  • 如今,东海汽船日语東海汽船的货船和客船从各岛出发时会播放《萤之光》。
  • 东京迪士尼乐园每年举行的倒计时派对日语カウントダウン・パーティー前三分钟会播放两到两分半的《萤之光》。
  • 《萤之光》被用作北大阪急行箕面萱野站(2024年3月22日前为千里中央站)末班电车的发车曲[8][9]

相关条目

外部链接

参考资料

  1. ^ 日本の歌百選 (PDF). 文化厅. [2024-09-12]. (原始内容存档 (PDF)于2024-08-11) (日语). 
  2. ^ 伊沢修二. 小学唱歌集 (PDF) 初编. 文部省音楽取调挂. [2024-09-12]. (原始内容存档 (PDF)于2024-09-12). 
  3. ^ “蛍の光”は差し支えない、英米音楽追放(‘东京日日新闻’昭和16年12月31日)‘昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年’p324 昭和ニュース事典编纂委员会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  4. ^ 大日方纯夫著‘唱歌“蛍の光”と帝国日本’〈历史文化ライブラリー 558〉、吉川弘文馆、2022年10月、ISBN 9784642059589
  5. ^ 《丑闻》:真善美的觉醒. www.siff.com. [2024-09-12]. (原始内容存档于2024-09-12). 
  6. ^ 原田伸一. 海峡の鉄路 青函連絡船 110年の軌跡と記憶. 北海道: 北海道新闻社. 2018年9月22日: 41–42. ISBN 978-4-89453-921-1. 
  7. ^ Tempoku2000, 青函連絡船 最終日 青森桟橋編, 2009-12-24 [2024-09-14], (原始内容存档于2024-09-14) 
  8. ^ 全国駅メロチャンネル, 北大阪急行 千里中央駅 最終電車専用発車メロディ「蛍の光」, 2021-03-16 [2024-09-12], (原始内容存档于2024-09-12) 
  9. ^ 夜行列车が好きな人, 北大阪急行箕面萱野駅発車メロディー 蛍の光(終電用), 2024-03-28