元寇 (军歌)

永井建子于1892年创作的日本军歌

元寇(日语:元寇げんこう)是1892年(明治25年)的一首日本军歌。词曲作者为时任陆军军乐队士官永井建子。全曲共计4段。此歌以“元寇”为名,取材于历史上的元日战争而创作。大正天皇亦爱唱此歌曲。

元寇
筥崎宫中的元寇歌曲碑

日本军歌
作词永井建子,1892年
作曲永井建子,1892年
音频样本
元寇

背景

历史上,1274年、1281年,元朝皇帝忽必烈两度进攻日本。但两次进攻皆因为台风影响而失败,且元军损失惨重。第一次攻日士兵一万余人,第二次攻日达十万余人,对日本威胁极大,其时可谓是日本民族危亡之秋。

第二次世界大战期间,日本长期奉行军国主义政策。1886年长崎事件,激起了日本朝野反华情绪,同时也促使日本加紧建设海军。1892年,日本扩军完毕,建设起了一支近代化的陆海军。此时全军战意正浓,本曲就于此时被谱写。该曲化用了历史上元日战争的史实,以侧面迎合军内主战情绪。

1894年,借朝鲜东学党起义之机,日军出兵朝鲜并开始借机侵华。甲午战争爆发。[1]

歌词

小节 日文原文 中文翻译
鎌倉男児(镰仓男儿) 四百余州しひゃくよしゅうこぞ十万余騎じゅうまんよきてき

国難こくなんここに弘安四年こうあんよねんなつころ
なんぞおそれんわれに 鎌倉男児かまくらだんじあり
正義武断せいぎぶだん 一喝いっかつしてしめ

四百余州皆举兵 敌军坐骑十余万
此时正值国难当头 弘安四年夏之时
我们何故而畏惧? 有镰仓男儿在此
挟正义武断之名 大喝一声示众举世
多々良浜(多多良滨) 多々良たたら浜辺はまべ戎夷えみし そはなに蒙古勢もうこぜい

傲慢無礼ごうまんぶれいもの ともてんいただかず
いでやすすみて忠義ちゅうぎきたえしかいな
ここぞくにのため 日本刀にっぽんとうため

多多良滨边的夷寇 正是其蒙古之势
傲慢无礼者 我等与之不共戴天
携忠义之魂前进 锻炼我等技艺
今次为了国家 去测试这日本刀
筑紫の海(筑紫之海) こころ筑紫つくしうみなみおしわけてゆく

ますら猛夫たけお あだかえらずば
して護国ごこくおにちかいし箱崎はこざき
かみろし大和魂やまとだまいさぎよし

心中常驻筑紫海 只求破浪前行
以此粗犷猛夫之身 不讨此仇誓不归
即便牺牲亦做护国之鬼 我等于箱崎立誓
得神灵感知而召往天国 大和魂永洁不染
玄海灘(玄海滩) てんいかりてうみ逆巻さかま大浪おおなみ

くにあだをなす 十余万じゅうよまん蒙古勢もうこぜい
そこ藻屑もくずえて のこるは唯三人ただみたり
いつしか雲晴くもはれて 玄界灘げんかいなだ月清つききよ

苍天暴怒于大海 海上巨浪翻卷
为此国家之仇者 其十余万蒙古之势
海中藻屑散尽时 幸存者唯三人
待何时云散尽 玄界滩之明月照耀

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在校歌《都の西北》创作出之前的早稻田大学坪内逍遥在1902年(明治35年)的开学典礼庆典上,旋律取自《元寇》并重新填词,创作了纪念曲《煌々五千の炬火》[2]

参考文献

  1. ^ 元寇 軍歌 歌詞の意味 永井建子. 世界の民谣・童谣. [2023-07-08]. (原始内容存档于2023-07-08) (日语). 
  2. ^ 第二巻/第四編 第三章. chronicle100.waseda.jp. [2023-07-08]. (原始内容存档于2023-07-08).