授刀舍人寮
授刀舍人寮(日語:
概要
授刀舍人寮於元明天皇即位後的慶雲四年(公元707年)七月隨即設立[4],目的可能是為了鞏固當時被確立為太子的首皇子(後來的聖武天皇)的地位。[5][6]
養老四年(公元720年)八月藤原不比等去世後[7]新田部親王被任命為「知五衛及授刀舍人事」[8],養老六年(公元722年)二月,從三位的藤原房前成為授刀寮的長官。[9]這些重臣擔任授刀舍人寮長官的案例側面說明了授刀舍人寮被看作是宮廷內的武裝力量而受到重視。房前上臺後隨即上書天皇建議廢止朝臣佩戴位袋的規定[9],同年朝廷即廢止了該規定[10],通過此事授刀寮開始參與對官員服裝與宮中禮儀的管理。除此之外,還有以下案例:
- 神龜四年(公元727年)正月,授刀寮將懈於守衛的侍從侍衛關禁閉。[11]
- 同年九月,天皇在添上郡附近的山村遊獵時,一隻鹿逃到了百姓的家中,隨後被百姓屠宰後分食。授刀寮隨即逮捕了該戶十數人,並將他們監禁。[12]
以上案例說明了授刀寮同時擁有類似警察一樣的身份,可以拘禁任何違反宮廷紀律的人。
如前文所述,藤原氏與該授刀寮的關係也十分緊密,藤原房前擔任其長官授刀頭便是最得力的證明。
下屬的官員有:長官、助、醫師、兵衛、衛士等。[13]
腳註
- ^ 『続日本紀』巻第八、元正天皇 養老5年12月29日条
- ^ 『続日本紀』巻第四、元明天皇 和銅元年3月23日条
- ^ 『ブリタニカ国際大百科事典』「小項目事典」授刀舍人寮
- ^ 『続日本紀』慶雲四年(707)七月丙辰「始置授刀舎人寮」
- ^ 林睦朗「皇位継承と親衛隊」『上代政治社会の研究』所収
- ^ 笹山晴生「授刀舎人補考」『日本古代衛府制度の研究』
- ^ 『続日本紀』巻第八、元正天皇 養老4年8月3条
- ^ 『続日本紀』巻第八、元正天皇 養老4年8月4条
- ^ 9.0 9.1 衣服令5条『令集解』所引2月23日格
- ^ 令集解(722)衣服「停止位袋事。右奉勅旨」
- ^ 『万葉集』巻第六 948番、949番左注
- ^ 『日本霊異記』上巻「三宝に帰信して衆僧を欽仰し、誦経せしめて、現報を得し縁」第三十二
- ^ 角川書店『日本史辞典』
- ^ 『続日本紀』巻第八、聖武天皇 神亀5年8月甲午条。
- ^ 笹山晴生「中衛府の研究」『日本古代衛府制度の研究』
參考文獻
- 『角川第二版日本史辞典』p470、高柳光寿・竹内理三:編、角川書店、1966年
- 『岩波日本史辞典』p732、監修:永原慶二、岩波書店、1999年
- 『国史大辞典』第二巻p189、吉川弘文館、文:笹山晴生、1980年
- 『続日本紀』1 新日本古典文学大系12岩波書店、1990年
- 『続日本紀』2 新日本古典文学大系13岩波書店、1990年
- 『萬葉集』(二)完訳日本の古典3、小学館、1984年
- 『日本霊異記』完訳日本の古典8、小学館、1986年