用户:Edwardtp/test1
褒章(ほうしょう、Medal)とは、社会や公共、文化などに功绩のあった者や団体を表彰するため、日本国政府が授与する记章のこと。勲章・位阶と并ぶ日本の栄典の一つ。その他、栄典ではないが褒章に准ずる顕彰・表彰として栄章(表彰记章とも)がある。
日本以外の国では、勲章をorder、その他の记章をmedalとしている。日本においても、勲章はorderと英訳し、褒章その他の栄章(表彰记章、または记章とも)は、すべてmedalと英訳する。
なお、褒章は个人を対象としたものであるため、法人・団体等には、それに代えて褒状が授与される。また、褒章を受章すべき者が死亡している场合には、受章者の遗族に対し、赏杯(银杯・木杯)または褒状を授与する(遗族追赏)。
概说
褒章は、1881年(明治14年)12月、褒章条例(明治14年太政官布告第63号)により制定された。当初は、红绶褒章、绿绶褒章、蓝绶褒章の3种であった。以后、1887年(明治20年)に黄绶褒章(现行のものとは异なる。[1]戦后廃止。)1918年(大正7年)に绀绶褒章が制定された。さらに1955年(昭和30年)、黄绶褒章と紫绶褒章が制定され、现在に至っている。2003年(平成15年)の栄典制度改革では、褒章の受章要件を缓和し、受赏対象を広げた。
勲章は、长年にわたる功绩を対象とする侧面が强く、人命救助のように一过性であっても功绩顕著な行いは、叙勲の対象となりにくい。これに対して褒章は、勲章(叙勲)の対象とはなりにくいが、顕著な功绩と认められるものに対して授与される。
褒章の意匠は、円形の记章で中心に“褒章”の二字置き、周囲を桜の花で饰る。褒章は、授与の理由によって绶の色を変え、红绶褒章・绿绶褒章・黄绶褒章・紫绶褒章・蓝绶褒章・绀绶褒章の6种类がある。すでに褒章を授与された者に、再度以上同様の理由で褒章を授与するときは、その都度、“饰版”1个を授与して、その褒章の绶に付け加える。
- 绀绶褒章については、多额の私财を公共の目的のために寄付した场合に授与される(金额・価额により贡献度が可视的である)ため、额が大きい场合は赏杯が同时に授与される。つまり、初授の场合、一定の额以内の贡献であれば绀绶褒章のみ、それ以上の场合は绀绶褒章と赏杯が授与され、2回目以降も基本的には饰版のみ、それ以上の场合は饰版と赏杯が授与される。
红绶褒章・绿绶褒章・黄绶褒章・紫绶褒章・蓝绶褒章については、勲章と同様、毎年4月29日(昭和の日)及び11月3日(文化の日)に発令される。各回、约800名に授与され、それぞれ“春の褒章”“秋の褒章”と呼ばれている。绀绶褒章は、表彰されるべき事绩の生じた都度、各府省等の推荐に基づき审查をし、授与を行うこととされ、毎月末の阁议で决定される。
日本の法令・行政上の扱いでは、褒章とは“○绶褒章”の名称をもつ褒章のみを指す。褒状、赏杯を含めるときは“褒赏”の表现を用いる(例:受章・受赏者を掲载する官报の栏名)。
褒章の种类
红绶褒章(こうじゅほうしょう)
“自己の危难を顾みず人命を救助したる者”に授与される。
1882年、青森県の海岸で暴风波浪により难破した渔船乘组员を救助した工藤仁次郎が受章第1号である。戦后は年々受章者が减少していた。
2003年の栄典制度改正に伴い受章机会の拡大が図られ、2004年春の褒章では16年ぶりに红绶褒章が3名に授与された。2005年春の褒章では、落水车からの人命救助の功で、15歳の少年に赠られた(受章した者のなかでは最年少)。また、同年秋の褒章では、JR福知山线脱线事故で救助活动に当たった地元企业や二次灾害を防いだ主妇に赠られた。
绿绶褒章(りょくじゅほうしょう)
“自ら进んで社会に奉仕する活动に従事し徳行顕著なる者”に授与される。
当初は“孝子・顺孙・节妇・义仆の徳行卓绝なる者又は実业に精励し众民の模范たるべき者”に授与することとされていた。1882年、青森県で数十年にわたり母へ孝养を尽くした外崎専四郎が受章第1号である。1950年12月25日の受章を最后に一旦途绝えた。これは、1955年の栄典制度改正で、“実业に精励~”の部分が黄绶褒章として独立し対象が狭まったこと、さらに戦后の価値観・环境の変化により顕彰するほどの孝行事例等が减少したこと(“义仆”とあるが、使用人を雇うほど裕福な一家は现在はまずいない)などによる。
2003年の栄典制度改正に伴い、受章机会・选考基准の见直しが図られ、社会福祉分野やボランティア活动などで顕著な実绩のある个人等に授与することとなった。これにより、翌2004年春の褒章では、半世纪ぶりに绿绶褒章が26名に授与された。
2008年には长年の受刑者更生支援等奉仕者として芸能人としては初めて杉良太郎が绿绶褒章を受章した。
黄绶褒章(おうじゅほうしょう)
“业务に精励し众民の模范たるべき者”に授与される。
1887年、黄绶褒章临时制定ノ件(明治20年敕令第16号)により、“私财ヲ献纳シ防海ノ事业ヲ赞成スルモノニ授与スル”と定められた。このときの受章第1号は、中井新右卫门。その后数年间は授章されたものの、长らく途绝えた。この敕令は、1947年の内阁官制の廃止等に関する政令(昭和22年政令第4号)により、一旦廃止された。
1955年の栄典制度改正により、授与する理由をあらためて、再度制定。同年、多年にわたり水稲农作技术の向上に努力した北海道の天崎正太郎が、新たな受章第1号である。改正されてからは、毎年500人~600人が受章している。2003年の栄典制度改正では、“第一线で业务に精励している者で、他の模范となるような技术や事绩を有する者を対象とし、受章者数の増加を図る”こととされた。
紫绶褒章(しじゅほうしょう)
“学术芸术上の発明改良创作に関し事绩着明なる者”に授与される。
1955年の栄典制度改正により新设された。同年、创作舞踏の第一人者であった石井漠が受章第1号となっている。以后、毎年50~100人が受章している。2003年の栄典制度改正では、“年齢制限を撤廃し、科学技术分野における発明・発见や、学术及びスポーツ・芸术分野における优れた业绩等に対して、速やかに表彰する”こととされた。受章者は、学者、活动历の长い芸能人(役者、俳优、歌手など)、芸术家(作家、作曲家など)、スポーツ选手が多い。オリンピックで优秀な成绩をおさめた者(メダリストやその种目における日本初の入赏者)へ授与されるのもこの褒章である。
蓝绶褒章(らんじゅほうしょう)
“公众の利益を兴し成绩着明なる者又は公同の事务に勤勉し労效顕著なる者”に授与される。
1882年、潅漑用水を开通させて荒野を农地に変え、村民生活の向上に贡献した大阪府の石田长蔵・久保田伊平が受章第1号である。戦后は毎年600人~1000人が受章している。2003年の栄典制度改正では、“公众の利益を兴した者に対する蓝绶褒章の选考に当たっては、他の模范となるような优れた业绩が认められる者を対象とする。また、従来公同の事务とされている分野について运用の见直しを行い、勲章の対象との関系を整理する”こととされた。
绀绶褒章(こんじゅほうしょう)
“公益の为私财を寄付し功绩顕著なる者”に授与される。
1919年、恩赐财団済生会へ5万円(现在の価値で1000万円相当 换算基准は“罚金等临时措置法”の规定によった)を寄付した小野光景が受章第1号である。绀绶褒章は他の褒章のように受章机会が春秋のみに限られず、事由の発生に合わせて、毎月末にまとめられ阁议で决定され発令される。现在は、公的机関や公益法人などへの500万円以上の寄付者が主な対象となる(受けた団体から所管官庁宛てに上申がされる)。寄付が多额に上る场合には、并せて赏杯(桐纹付きの杯)が授与される。
褒状
褒章を授与される理由の事绩を残した者が団体である场合には、自然人ではない団体がメダルを着ける事は出来ないので、法人・団体の名义で褒状が授与される。褒状には、各褒章と同様に授与の理由が记されているが、名称には“绿绶”“紫绶”等の区分は冠されず、すべて単に“褒状”となる。
遗族追赏
褒章(绀绶褒章を除く)の授章対象者が死亡した场合は、遗族へ银杯か木杯か褒状が授与される。これを遗族追赏という。叙勲対象者でもあるときは、遗族追赏ではなく死亡叙勲が行われることとなる。
根拠法令
- 日本国宪法第7条7号(栄典の授与が天皇の国事行为と定められている)
- 褒章条例(明治14年太政官布告第63号)
- 褒章条例取扱手続(明治27年阁令第1号)
- 勲章、记章、褒章等の授与及び伝达式例(昭和38年7月12日阁议决定)
なお、褒章について定めた法律は存在しない。1952年(昭和27年)、褒章を含め栄典に関する事项は法律で定めるべきとの解釈の下、栄典法案が国会に提出されたことがあったが成立しなかった。そのため、政府は、褒章条例を政令により改正することで戦后の褒章制度の整备をするに至ったが、このような措置に対しては、日本国宪法下では褒章は法律対象事项であり、失当ではないかとする见解が宪法学者の间では有力である。
関系官庁
栄典を所管するのは内阁府であり、事务执行机関として赏勲局が置かれている。元は1876年(明治9年)、太政官に新设された赏勲局が始まりであり、初代长官には伊藤博文が就任、代々三条実美や西园寺公望らがトップに就く要职であった。戦后は総理府の一部局となった。
褒章の选考手続きについては、各都道府県・各関系団体から具申を受けた各省庁大臣が、赏勲局へ褒章候补者を推荐し、慎重な审查の上、阁议に请议されて决定されている。
褒章制度の沿革
- 1875年(明治8年)7月 - 太政官达第121号において、笃行者・奇特者へ赏与を与えることが定められる。
- 1880年(明治13年) - 赏勲局から褒章制度制定について上申される。
- 1881年(明治14年)12月7日 - 褒章条例(太政官布告第63号)が制定される。当初は红绶・绿绶・蓝绶の3种类であった。これにより、褒章制度が确立した。
- 1887年(明治20年) - 黄绶褒章を追加。
- 1918年(大正7年) - 红绶褒章を追加。
- 1955年(昭和30年)1月 - 黄绶褒章と紫绶褒章を追加。
- 1978年(昭和53年) - 春以降、黄绶褒章・紫绶褒章・蓝绶褒章は、毎年4月29日及び11月3日に授与することとした。
- 2003年(平成15年) - 秋、栄典制度の抜本改正に伴い、褒章制度も改革された。
その他の褒赏
その他、都道府県では知事による表彰として褒赏を授与する制度があるが、一般にこれを知事褒章と通称することがある。特に东京都では、东京都知事表彰として、功労ある消防団员に対する消防褒赏があり记念章が授与されることから、しばしば公私を问わずこれらを知事褒章、消防褒章と通称されることが多い。 但し、それら都道府県の“褒章”は正确には“褒章”ではなく“褒赏”であり、その位置付けは国の栄典ではなく东京都の表彰である。授与される记章も记念章であり、国の褒章とは异なる。
関连项目
参考资料
- ^ 黄绶褒章临时制定ノ件(明治20年敕令第16号)により、“私财ヲ献纳シ防海ノ事业ヲ赞成スルモノニ授与スル”と定められた。内阁官制の廃止等に関する政令(昭和22年政令第4号)1条により、1947年(昭和22年)5月3日をもって廃止。
外部连接
- (日语)日本の勲章・褒章