用户:梦蝶葬花/改易
改易(かいえき)とは、律令制度では现职者の任を解き、新任者を补任することである。镰仓时代・室町时代には守护・地头の职の变更を意味し、江户时代においては大名・旗本などの武士から身分を剥夺してその所领や居城・阵屋・屋敷などを没収することを意味した。なお、后者の场合、除封ともいい、所领を削减されることは减封という。
江户时代大名家的改易
在关原之战后,以石田三成(近江国)、小西行长(肥后国)、宇喜多秀家(备前国冈山)和长宗我部盛亲(土佐国)为首的西军大名共88家遭到改易,石田三成、小西行长等被斩首,宇喜多秀家被流放到八丈岛,长宗我部盛亲也被迫蛰居,毛利家(毛利辉元、吉川广家和毛利秀元)、上杉家(上杉景胜)等5大名家虽然没有被改易,但是领地也遭到大幅削减。
大阪之阵后,因为不再有大规模的战争,于是世嗣断绝和违反幕法便成为了改易的新的理由。因为在大名生命垂危之际而临阵收养子是被禁止的,因此很多大名便因为这个理由而被改易。此外,福岛正则因为在未经许可的情况下擅自修筑广岛城,而被以违反幕法为由而被改易。大久保忠邻与本多正纯也因为幕府内部的权力斗争,也被改易了。
改易に关する规定としては、‘御定书百个条’に、
御仕置仕形之事
从二前々之例一
一 改易は、住所御构等は无レ构 御暇被レ下 平民に相成まで此名目は当主并に嫡子に限り候事
一 改易(かっこ内は割书で、縦书き右行に“大小渡、宿へ相帰し、”左行に“夫より为二立退一申候”)
但家屋敷取上、家财无レ构
とあり、また‘诸例类纂’には、“
とある。
江户时代、大名家が咎により改易されると、大名自身は打首(岛原の乱の松仓胜家)または切腹(赤穂事件の浅野长矩など)となることが多かった。それ以外でも他の大名家などへお预けとなり、严しい监视の下で蛰居させられた(松平忠直・松平忠辉など)。城と领地は没収となり、改易となった大名家に仕えていた多くの家臣も、禄を失って浪人となった。
ただし、改易の处分を受けても后に许され、大名本人または子孙や一族の者が小大名や旗本に取り立てられ家名が存续することも少なくなかった。谱代・亲藩の中には、改易处分のあとに许されて、その子孙が旧知とほぼ同じ待遇で复帰した例もある。唯一の例外として改易された有马晴信の子直纯は、そのまま迹を继ぐことが许された。
江户时代初期には旧丰臣系大名を中心に大名廃绝政策が取られたために、家康、秀忠、家光の三代の时代に外样大名82家、亲藩・谱代大名49家が改易された。幕府は改易、减封によって生じた空白地を天领(直辖地)にし、亲藩・谱代大名を新たに配置して、外样大名を远隔地に转封するなどして幕府权力の绝对优位を确立していった。
しかし、改易によって大量の浪人が生じて社会不安につながり、浪人による反乱未遂事件(庆安の变)が起きた。このため幕府は政策を见直し、4代家纲の时代に末期养子の禁は缓和された。5代纲吉の时代には廃绝政策は谱代大名に向けられ27家が改易された。これ以后は幕藩体制が确立して改易、转封は减少して大名は固定化されるようになり、幕末に至った。关原之战以降、江户时代を通じて外样大名127家、亲藩・谱代大名121家の计248家が改易されている。
大阪之阵で丰臣家が灭ぼされて以后、武力抵抗をした大名は皆无であり、全て无抵抗で城と领地を幕府へ明渡している。
幕末に长州藩が幕府军に武力抵抗して打ち胜ち(长州征伐)、幕府の弱体化が顕になって大名への绝对的统制は崩れ、鸟羽・伏见の战い以后の戊辰战争により幕藩体制は终焉した。后、明治新政府により、1家(请西藩)林家が改易、会津藩松平家、仙台藩伊达家、米泽藩上杉家など22家が减封の处分を受けた。
江户幕府による改易の申し渡しへの配虑
改易は领主と家臣、居城、领国などの解体を伴い大名の无力化を意味する。このため一つ间违えば反乱の原因となるため、江户幕府侧も周到な准备や配虑を行っている。1619年(元和5年)に安艺・备后50万石の外样大名福岛正则の改易では、将军秀忠の上洛のために正则が江户に留め置かれた状态で改易が言い渡された。1622年(元和8年)10月の宇都宫15.5万石の谱代大名本多正纯の改易は、上使として山形城に派遣されている折りに正纯に言い渡された。1632年(寛永9年)の肥后52万石の外样大名加藤忠广の改易では、幕府によって江户に召唤されていた忠广が品川宿に逗留中の5月22日に足止めされて江户に入れず、そのまま池上本门寺に幽闭され、24日には加藤氏の改易が将军家光から伊达政宗他5人の外样大名に传达、また家光は加藤氏と亲戚筋に当たる德川赖宣(夫人が忠广姊)と事前の相谈を行い、一般には6月1日に改易が公表された。これらの3例は居城と家臣团から改易大名を切り离した状态を狙ったり、またそのような状况を意图的に作ったうえで处分を言い渡している。これは改易を契机とする抗战を予防するためであり、江户幕府は反乱の芽を摘み取るために细心の注意を払って改易を行った[1]。
主要的被改易的理由
关原之战で败れた大名家の改易・减封
注:本列表以禄高进行排序。禄高相同的大名则按照五十音顺进行排序。下同。
关原之战中战败
大名 | 通称・官名 | 年月 | 没収减封领地名・禄高 | 处罚与后续 |
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宇喜多秀家 | 中纳言 | 1600.9~ | 备前冈山57.4万石 | 被流放到八丈岛 |
小西行长 | 摄津守 | 1600.9~ | 肥后宇土24万石 | 斩首 |
石田三成 | 治部少辅 | 1600.9~ | 近江佐和山19.7万石 | 斩首 |
织田秀信 | 中纳言 | 1600.8 | 美浓岐阜13.3万石 | 出家 |
安国寺恵琼 | ? | 1600.9~ | 伊予国内6万石 | 斩首 |
大谷吉继 | 刑部少辅 | 1600.9 | 越前敦贺6万石 | 战死 |
毛利胜信 | 壹岐守 | 1600.9~ | 丰前小仓6万石 | 投靠山内家 |
长束正家 | 大蔵大辅 | 1600.9~ | 近江水口5万石 | 自刃 |
山口正弘 | 玄蕃头 | 1600.8 | 加贺大圣寺5万石 | 战死 |
石田正继 | 隠岐守 | 1600.9~ | 近江国内3万石 | 自刃 |
伊藤盛正 | 彦兵卫 | 1600.9~ | 美浓大垣3万石 | 追放、后前往前田家仕官 |
岛津丰久 | 中务大辅 | 1600.9 | 日向佐土原2.8万石→萨摩岛津家(宗家)へ编入 | 战死 |
木下赖继 | 山城守 | 1600.9 | 越前国内2.5万石 | 病死 |
佐藤方政 | 才次郎 | 1600.8 | 美浓上有知2万石 | 浪人 |
户田胜成 | 武蔵守 | 1600.9 | 越前安居2万石 | 战死 |
丸毛兼利 | 三郎兵卫 | 1600.8 | 美浓福束2万石 | 逃亡、后前往前田家仕官 |
石田正澄 | 木工头 | 1600.9~ | 近江国内1.5万石 | 自刃 |
宇多赖忠 | 下野守 | 1600.9~ | 大和国内1.3万石 | 自刃 |
山口修弘 | 右京亮 | 1600.8 | 加贺国内1.3万石 | 战死 |
石川贞清 | 备前守 | 1600.9~ | 尾张犬山1.2万石 | 剃髪 |
糟屋武则 | 内膳正 | 1600.9~ | 播磨加古川1.2万石 | 之后作为旗本仕官 |
平冢为广 | 因幡守 | 1600.9 | 美浓垂井1.2万石 | 战死 |
河尻秀长 | 肥前守 | 1600.9~ | 美浓苗木1万石 | 战死 |
岸田忠氏 | 伯耆守 | 1600.9~ | 大和岸田1万石 | 投靠南部家 |
高木盛兼 | 十郎左卫门 | 1600.8 | 美浓高须1万石 | 前往堀尾家仕官 |
关原之战中从属西军
大名 | 通称・官名 | 年月 | 没収减封领地名・禄高 | 动向与后续 |
---|---|---|---|---|
长宗我部盛亲 | 宫内少辅 | 1600.11 | 土佐浦户22.2万石 | 浪人 |
增田长盛 | 右卫门尉 | 1600.9~ | 大和郡山20.3万石 | 被流放到高野山 |
青木一矩 | 纪伊守 | 1600.10 | 越前北庄20万石 | 降服于前田利长[2]、病死(无嗣断绝[3]) |
青木俊矩 | 右卫门佐 | 1600.10 | 越前国金刚院2万石 | 除封 |
立花宗茂 | 左近将监 | 1600.10 | 筑后柳河13.2万石 | 浪人、之后再封棚仓藩 |
宫部长煕 | 兵部少辅 | 1600.10 | 因幡鸟取13.1万石 | 南部家预かり |
小早川秀包 | 筑后守 | 1600.10.10 | 筑后久留米13万石 | 归还给毛利本家(吉敷毛利家) |
丹羽长重 | 加贺守 | 1600.9~ | 加贺小松12.5万石 | 之后再封常陆古渡藩 |
小川祐忠 | 土佐守 | 1600.9~ | 伊予今治7万石 | 寝返到东军,病死 |
南条元忠 | 中务大辅 | 1600.9~ | 伯耆羽衣石6万石 | 浪人,后向丰臣家仕官 |
织田秀雄 | 宰相 | 1600.9~ | 越前大野5万石 | 隠居 |
丹羽长正 | 备中守 | 1600.9~ | 越前东郷5万石 | 浪人,后向丰臣家仕官 |
青山宗胜 | 修理亮 | 1600.9~ | 越前丸冈4.6万石 | 浪人 |
小野木公郷 | 缝殿助 | 1600.10 | 丹波福知山4万石 | 自刃 |
田丸直昌 | 中务大辅 | 1600.9~ | 美浓岩村4万石 | 追放,之后得到赦免 |
小野寺义道 | 远江守 | 1600.9~ | 出羽横手3.1万石 | 追放 |
木下利房 | 宫内少辅 | 1600.9~ | 若狭高浜3万石 | 浪人 |
新庄直赖 | 骏河守 | 1600.9~ | 摄津高槻3万石 | 投靠蒲生家,后再封麻生藩 |
原胜胤 | 隠岐守 | 1600.9~ | 美浓大田山3万石 | 自刃 |
堀内氏善 | 安房守 | 1600.9~ | 纪伊新宫2.7万石 | 投靠肥后加藤家 |
氏家行广 | 内膳正 | 1600.9~ | 伊势桑名2.2万石 | 浪人 |
冈本良胜 | 下野守 | 1600.9~ | 伊势亀山2.2万石 | 自刃 |
斎村政广 | 左兵卫佐 | 1600.10 | 但马竹田2.2万石 | 自刃 |
赤座直保 | 备后守 | 1600.9~ | 越前今庄2万石 | 寝返到东军,后投靠前田家 |
荒木重坚 | 备中守 | 1600.9~ | 因幡若桜2万石 | 自刃 |
池田秀氏 | 伊予守 | 1600.9~ | 伊予大洲2万石 | 前往藤堂家仕官 |
木下一元 | 美作守 | 1600.9~ | 不明2万石 | 不明 |
木下延重 | 周防守 | 1600.9~ | 播磨国内2万石 | 不明 |
多贺秀种 | 出云守 | 1600.9~ | 大和宇多2万石 | 堀家に居候 |
滝川雄利 | 下总守 | 1600.10 | 伊势神户2万石 | 后に再封(片野藩) |
早川长政 | 主马首 | 1600.9~ | 丰后府内2万石 | 浪人 |
杉若氏宗 | 主殿头 | 1600.9~ | 纪伊田辺1.9万石 | 逃亡、不明 |
高桥直次 | 主膳正 | 1600.10 | 筑后内山1.8万石 | 投靠立花家 |
筑紫广门 | 上野介 | 1600.10 | 筑后山下1.8万石 | 出家、加藤家に居候 |
横浜茂胜 | 民部少辅 | 1600.9~ | 播磨国内1.7万石 | 不明 |
氏家行继 | 志摩守 | 1600.9~ | 近江国内1.5万石 | 投靠细川家 |
寺田光吉 | 播磨守 | 1600.9~ | 大和国内1.5万石 | 被流放到高野山 |
木村清久 | 弥市右卫门 | 1600.9~ | 丰后国内1.4万石 | 浪人 |
石川贞通 | 备后守 | 1600.9~ | 山城国内1.2万石 | 投靠南部家 |
石川赖明 | 扫部头 | 1600.9~ | 播磨国内1.2万石 | 自刃 |
奥山正之 | 雅楽助 | 1600.10 | 越前国内1.1万石 | 剃髪 |
寺西是成 | 下野守 | 1600.9~ | 伊势国内1.07万石 | 剃髪 |
沟江长晴 | 彦三郎 | 1600.9~ | 越前金津1.07万石 | 前往井伊家仕官 |
赤松则英 | 上总介 | 1600.9~ | 阿波住吉1万石 | 自刃 |
池田长政 | 河内守 | 1600.9~ | 不明1万石 | 不明 |
上田重安 | 主水正 | 1600.9~ | 越前国内1万石 | 逃亡,后向浅野家仕官 |
垣屋恒总 | 隠岐守 | 1600.9~ | 因幡浦住1万石 | 自刃 |
木村由信 | 宗左卫门 | 1600.9~ | 美浓北方1万石 | 被流放到高野山 |
高田治忠 | 丰后守 | 1600.9~ | 丹波国内1万石 | 不明 |
寺西直次 | 备中守 | 1600.9~ | 伊势国内1万石 | 投靠前田家 |
中江直澄 | 式部少辅 | 1600.9~ | 不明1万石 | 投靠伊达家 |
服部正栄 | 土佐守 | 1600.9~ | 近江国内1万石 | 浪人,后向丰臣家仕官 |
莳田广定 | 左卫门权佐 | 1600.9~ | 伊势云出1万石 | 高野山蛰居,之后再封浅尾藩 |
松浦秀任 | 伊予守 | 1600.9 | 伊势井生1万石 | 战死 |
矢部定政 | 丰后守 | 1600.9~ | 不明1万石 | 不明 |
山崎定胜 | 右京进 | 1600.9~ | 伊势竹原1万石 | 逃亡,后向丰臣家仕官 |
吉川广家 | 蔵人头 | 1600.10.10 | 出云富田14.2万石→3万石 | 岩国领主[4] |
毛利辉元 | 中纳言 | 1600.10.10 | 安艺广岛112.0万石→29.8万石 | 隠居,嫡男秀就继承家督并成为长州藩主[5] |
毛利秀元 | 甲斐守 | 1600.10.10 | 周防山口20万石→5万石 | 长府藩主 |
前田利政 | 能登守 | 1600.11 | 能登七尾21.5万石→加贺前田家(宗家)へ编入 | 隠居 |
真田昌幸 | 安房守 | 1600.12 | 信浓上田3.8万石→沼田真田家(长男信之)へ编入 | 蛰居 |
上杉景胜 | 中纳言 | 1601.8 | 陆奥会津120万石→30万石 | 米泽藩主 |
关原之战中逃亡
大名 | 通称・官名 | 年月 | 没収减封领地名・禄高 | 动向与后续 |
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木下胜俊 | 少将 | 1600.9~ | 若狭小浜6.2万石 | 之后再封足守藩 |
关原之战中中立
大名 | 通称・官名 | 年月 | 没収减封领地名・禄高 | 动向与后续 |
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相马义胤 | 长门守 | 1600 | 陆奥中村6万石 | 之后重封相马中村藩 |
多贺谷重経 | 修理大夫 | 1601.2 | 常陆下妻6万石 | 浪人 |
岩城贞隆 | 忠次郎 | 1601 | 陆奥磐城平12万石 | 之后重封信浓中村藩 |
山川朝信 | 民部少辅 | 1601 | 下总山川2万石 | 后前往结城氏仕官 |
佐竹义宣 | 右京大夫 | 1602.5.8 | 常陆水户54.5万石→20.5万石 | 久保田藩主[6] |
江户时代遭到改易的大名
大名 | 没収领地・禄高 | 年代 | 改易理由 | 动向与后续 |
---|---|---|---|---|
小早川秀秋 | 备前冈山藩51万石 | 1602年 | 无嗣断绝 | |
武田信吉 | 常陆水户藩15万石 | 1603年 | 无嗣断绝 | 遗领由异母弟德川赖将继承 |
堀鹤千代 | 越后蔵王堂藩4万石 | 1606年 | 无嗣断绝 | 遗领は后见人堀直寄に还付 |
松平忠吉 | 尾张清洲藩52万石 | 1607年 | 无嗣断绝 | 遗领由异母弟德川义利继承。后藩厅转移至名古屋 |
天野康景 | 骏河兴国寺藩1万石 | 1607年 | 杀人犯引渡しの拒否・出奔 | 子天野康宗作为旗本存续 |
稻叶通孝 | 丰后国内1.4万石 | 1607年 | 无嗣断绝 | 遗领归还给兄长稻叶典通。子稻叶通照作为旗本存续 |
津田信成 | 山城御牧藩1.3万石 | 1607年 | 乱暴狼藉 | |
稻叶通重 | 美浓清水藩1.2万石 | 1607年 | 乱暴狼藉 | 常陆筑波に流罪 |
筒井定次 | 伊贺上野藩20万石 | 1608年 | 诸说あり(恶政、酒浸り、诉讼等) | 大阪之阵で自害 |
前田茂胜 | 丹波八上藩5万石 | 1608年 | 発狂 | 堀尾忠晴に预け。弟前田正胜作为旗本存续 |
桑山清晴 | 和泉谷川藩1万石 | 1609年 | 勘気を被る | 领地は父桑山元晴に还付 |
小笠原吉次 | 常陆笠间藩3万石 | 1609年 | 私曲连座 | 武蔵に隠栖 |
中村一忠 | 伯耆米子藩17.5万石 | 1609年 | 无嗣断绝 | |
木下胜俊 | 备中足守藩2.5万石 | 1609年 | 遗领の独占 | 京都东山に隠栖 |
松平忠赖 | 远江浜松藩5万石 | 1609年 | 杀害 | 1622年、子の松平忠重が大名复帰 |
水野忠胤 | 三河水野藩1万石 | 1609年 | 松平忠赖杀害事件など | |
皆川广照 | 信浓饭山藩1万石 | 1609年 | 谗言 | 后に赦免、府中藩主 |
堀忠俊 | 越后高田藩30万石 | 1610年 | 御家騒动 | 鸟居忠政に预け |
金森长光 | 美浓上有知藩2万石 | 1611年 | 无嗣断绝 | |
平岩亲吉 | 尾张犬山藩12万3千石 | 1611年 | 无嗣断绝 | |
有马晴信 | 肥前日野江藩4万石 | 1612年 | 冈本大八事件 | 切腹[7]。子有马直纯がそのまま相续 |
松平忠清 | 三河吉田藩3万石 | 1612年 | 无嗣断绝 | 弟松平清昌作为旗本存续 |
山口重政 | 常陆牛久藩1.5万石 | 1613年 | 嫡男・重信の无断婚姻 | 大阪之阵の战功で牛久藩に再封 |
大久保忠佐 | 骏河沼津藩2万石 | 1613年 | 无嗣断绝 | |
里见忠重 | 上野板鼻藩1万石 | 1613年 | 勤务怠慢 | 义弟酒井忠胜の庄内鹤冈に国替えの际に同行し、以后は400石を拝领される |
富田信高 | 伊予宇和岛藩12万石 | 1613年 | 坂崎直盛との争い | 鸟居忠政に预け。次男の系统が后に旗本 |
石川康长 | 信浓松本藩8万石 | 1613年 | 大久保长安事件に连座 | 毛利高政に预け |
高桥元种 | 日向延冈藩5万石 | 1613年 | 富田信高に连座 | 立花宗茂に预け |
石川康胜 | 信浓奥仁科藩1.5万石 | 1613年 | 石川康长に连座 | 大坂夏の阵で战死 |
大久保忠邻 | 相模小田原藩6.5万石 | 1614年 | 诸说あり (大久保长安事件、谗言) |
井伊直孝に预け |
佐野信吉 | 下野佐野藩3.9万石 | 1614年 | 富田信高に连座 | 小笠原秀政に预け。子佐野久纲・佐野公当が旗本として存续 |
里见忠义 | 安房馆山藩12.2万石 | 1614年 | 大久保忠邻に连座 | 伯耆国仓吉藩に转封 |
丰臣秀赖 | 摄津大坂藩65.7万石 | 1615年 | 大坂の阵の败战 | 自害 |
古田重然 | 不明1万石 | 1615年 | 大坂の阵での丰臣方加担 | 切腹 |
福岛高晴 | 大和宇陀松山藩3.1万石 | 1615年 | 大坂の阵での丰臣方密通 | 伊势山田に蛰居 |
织田信重 | 伊势林藩1万石 | 1615年 | 所领相续における争论 | |
松平忠辉 | 越后高田藩60万石 | 1616年 | 大坂の阵での遅参、旗本杀害、 参内の懈怠 |
伊势に流罪 |
藤田信吉 | 下野西方藩1.5万石 | 1616年 | 无嗣断绝 | |
坂崎直盛 | 石见津和野藩4万石 | 1616年 | 反逆 | 自害(家臣に杀されたとも) |
村上忠胜 | 越后村上藩9万石 | 1618年 | 家中騒动 | 松平康重に预け |
关一政 | 伯耆黑坂藩5万石 | 1618年 | 家中騒动 | 养子关氏盛作为旗本存续 |
福岛正则 | 安艺广岛藩49.8万石 | 1619年 | 城の无断修理 | 高井野藩へ减转封 |
伊奈忠胜 | 武蔵小室藩1.3万石 | 1619年 | 无嗣断绝 | 弟伊奈忠隆作为旗本存续 |
田中忠政 | 筑后柳河藩32.5万石 | 1620年 | 无嗣断绝 | 兄田中吉兴が2万石で再封 |
织田长益 | 大和国内1万石 | 1621年 | 死去により収公 | |
最上义俊 | 出羽山形藩57万石 | 1622年 | 御家騒动 | 大森藩へ减转封 |
本多正纯 | 下野宇都宫藩15.5万石 | 1622年 | 不忠 详细は宇都宫城钓天井事件 |
佐竹义宣に预け。孙本多正之作为旗本存续 |
成田泰之 | 下野乌山藩3.7万石 | 1622年 | 无嗣断绝 | |
西尾嘉教 | 美浓揖斐藩2.5万石 | 1623年 | 无嗣断绝 | |
内藤清政 | 安房胜山藩3万石 | 1623年 | 无嗣断绝 | 1626年甥の内藤正胜が2万石で再封 |
田中吉官 | 近江国内等2万石 | 1623年 | 家臣に连座 | 旗本 |
本多纪贞 | 上野白井藩1万石 | 1623年 | 无嗣断绝 | |
福岛正则 | 信浓高井野藩2万石 | 1624年 | 幕府の検使到着前の火葬 | 子福岛正利が旗本として存续 |
青山忠俊 | 上总大多喜藩2万石 | 1625年 | 勘気を被る | 蛰居。子の青山宗俊が1648年に大名复帰 |
根津信直 | 上野丰冈藩1万石 | 1626年 | 无嗣断绝 | |
德永昌重 | 美浓高须藩5万石 | 1628年 | 大坂城石垣普请の遅延 | 1648年、子德永昌胜得到赦免并称为旗本 |
别所吉治 | 但马八木藩2万石 | 1628年 | 仮病による参勤交代の懈怠 | 子别所守治作为旗本存续 |
桑山贞晴 | 大和御所藩2.6万石 | 1629年 | 无嗣断绝 | 弟桑山荣晴继承家名作为旗本存续 |
酒井直次 | 出羽左泽藩1.2万石 | 1630年 | 无嗣断绝 | |
织田长则 | 美浓野村藩1万石 | 1631年 | 无嗣断绝 | |
池田政纲 | 播磨赤穂藩3.5万石 | 1631年 | 无嗣断绝 | 弟池田辉兴が再封 |
三浦重胜 | 下总三浦藩1万石 | 1631年 | 无嗣断绝 | |
胁坂安信 | 美浓胁坂藩1万石 | 1632年 | 刃伤事件 | |
奥平忠隆 | 美浓加纳藩10万石 | 1632年 | 无嗣断绝 | |
加藤忠广 | 肥后熊本藩51万石 | 1632年 | 诸说あり(座兴、法度违反など) | 出羽丸冈藩に减转封 |
德川忠长 | 骏河府中藩50万石 | 1632年 | 不行迹 | 自害 |
朝仓宣正 | 远江挂川藩2.6万石 | 1632年 | 德川忠长に连座 | 松平忠明に预け |
鸟居忠房 | 甲斐谷村藩3.5万石 | 1632年 | 德川忠长に连座 | 鸟居忠恒に预け。 |
酒井重澄 | 下总生实藩2.5万石 | 1633年 | 勤务怠慢 | 水野胜成に预け(后に自害)子酒井重知作为旗本存续 |
堀尾忠晴 | 出云松江藩24万石 | 1633年 | 无嗣断绝 | |
竹中重义 | 丰后府内藩2万石 | 1634年 | 密贸易等の不正 | 切腹 |
蒲生忠知 | 伊予松山藩24万石 | 1634年 | 无嗣断绝 | |
鸟居忠恒 | 出羽山形藩24万石 | 1636年 | 无嗣断绝 | 弟鸟居忠春が高远藩3万石 |
本多政武 | 大和高取藩3万石 | 1637年 | 无嗣断绝 | |
松仓胜家 | 肥前岛原藩4万石 | 1638年 | 岛原の乱を発生させた恶政の引责 | 斩首(江户时代の大名で唯一の斩首) |
佐久间安次 | 信浓饭山藩3万石 | 1638年 | 无嗣断绝 | |
成瀬之虎 | 下总栗原藩1.6万石 | 1638年 | 无嗣断绝 | |
本多犬千代 | 下野榎本藩2.8万石 | 1640年 | 无嗣断绝 | |
生驹高俊 | 讃岐高松藩17.3万石 | 1640年 | 御家騒动 | 堪忍料として矢岛藩1万石、のち分知により交代寄合旗本となる |
池田长常 | 备中松山藩6.5万石 | 1641年 | 无嗣断绝 | 弟池田长信作为旗本存续 |
那须资重 | 下野那须藩1.7万石 | 1642年 | 无嗣断绝 | 父那须资景作为旗本存续 |
堀直定 | 越后村上藩10万石 | 1642年 | 无嗣断绝 | |
加藤明成 | 陆奥会津藩40万石 | 1643年 | 御家騒动 | 堪忍料吉永藩1万石 |
加藤明利 | 陆奥二本松藩3万石 | 1643年 | 加藤明成に连座、不审な死去 | 子加藤明胜作为旗本存续 |
宫城丰嗣 | 但马清富藩1.3万石 | 1643年 | 无嗣断绝 | |
松下长纲 | 陆奥三春藩3万石 | 1644年 | 乱心 | 山内忠义に预け。子松下长光作为旗本存续 |
松平清道 | 播磨姫路新田藩3万石 | 1644年 | 无嗣断绝 | |
池田辉兴 | 播磨赤穂藩3.5万石 | 1645年 | 乱心 | 池田光政に预け |
皆川成郷 | 常陆府中藩1.3万石 | 1645年 | 无嗣断绝 | |
真田信重 | 信浓埴科藩1.7万石 | 1647年 | 无嗣断绝 | 父真田信之に所领还付 |
松平宪良 | 信浓小诸藩5万石 | 1647年 | 无嗣断绝 | 弟松平康尚が长岛藩立藩 |
菅沼定昭 | 丹波亀山藩3.8万石 | 1647年 | 无嗣断绝 | 弟菅沼定实・菅沼定赏作为旗本存续 |
寺泽坚高 | 肥前唐津藩8.3万石 | 1647年 | 自害 | |
古田重恒 | 石见浜田藩5.4万石 | 1648年 | 无嗣断绝 | |
稻叶纪通 | 丹波福知山藩4.5万石 | 1648年 | 乱心、自害 | |
织田信胜 | 丹波柏原藩3.6万石 | 1650年 | 无嗣断绝 | 叔父织田信当作为旗本存续 |
本多胜行 | 大和国内4万石 | 1650年 | 无嗣断绝 | 父本多政胜に所领还付 |
松平定政 | 三河刈谷藩2万石 | 1651年 | 幕阁の批判 | 松平定行に预け。子松平定知作为旗本存续 |
平冈赖资 | 美浓德野藩1万石 | 1653年 | 家督继承问题 | 子平冈赖重作为旗本存续 |
加藤忠广 | 出羽丸冈藩1万石 | 1653年 | 无嗣断绝 | |
杉原重玄 | 但马丰冈藩1万石 | 1653年 | 无嗣断绝 | 大叔父杉原义正作为旗本存续 |
片桐为次 | 大和竜田藩1万石 | 1655年 | 无嗣断绝 | 弟片桐且昭作为旗本存续之后断绝 |
日根野吉明 | 丰后府内藩2万石 | 1656年 | 无嗣断绝 | |
山崎治赖 | 讃岐丸亀藩5万石 | 1657年 | 无嗣断绝 | 叔父山崎丰治作为旗本存续。幕末成羽藩を立藩 |
北条氏重 | 远江挂川藩3万石 | 1658年 | 无嗣断绝 | 义兄北条繁广作为旗本存续 |
堀田正信 | 下总佐仓藩11万石 | 1660年 | 无断帰城 | |
松平重利 | 下野皆川藩1.5万石 | 1665年 | 无嗣断绝 | |
一柳直兴 | 伊予西条藩2.5万石 | 1665年 | 勤务怠慢、失政など | 前田纲纪に预け |
京极高国 | 丹后宫津藩7.8万石 | 1666年 | 亲子不和、失政 | 南部重信に预け |
水野元知 | 上野安中藩2万石 | 1667年 | 乱心 | 水野忠职に预け。子水野元朝作为旗本存续 |
高力隆长 | 肥前岛原藩4万石 | 1668年 | 失政 | 伊达纲村に预け。子高力忠弘作为旗本存续 |
酒井忠解 | 出羽大山藩1万石 | 1668年 | 无嗣断绝 | |
池田邦照 | 播磨新宫藩1万石 | 1670年 | 无嗣断绝 | 弟池田重教作为旗本存续 |
伊达宗胜 | 陆奥一关藩3万石 | 1671年 | 御家騒动(伊达騒动) | 土佐に流罪 |
池田恒行 | 播磨山崎藩3万石 | 1678年 | 无嗣断绝 | |
土屋直树 | 上总久留里藩2万石 | 1679年 | 乱心 | 子土屋逵直作为旗本存续 |
户川安风 | 备中庭瀬藩2万石 | 1679年 | 无嗣断绝 | 弟户川达富作为旗本存续 |
堀通周 | 常陆玉取藩1.2万石 | 1679年 | 乱心 | 弟堀利雄作为旗本存续 |
内藤忠胜 | 志摩鸟羽藩3.5万石 | 1680年 | 刃伤事件 | 切腹 |
永井尚长 | 丹后宫津藩7.3万石 | 1680年 | 杀害、无嗣断绝 | 弟永井直円が大和新庄藩立藩 |
加贺爪直清 | 武蔵高坂藩1.3万石 | 1681年 | 领土问题 | 石川总良に预け |
松平光长 | 越后高田藩26万石 | 1681年 | 御家騒动(越后騒动) | 松平定直に预け。养子松平长矩が津山藩立藩 |
真田信利 | 上野沼田藩3万石 | 1681年 | 勤务怠慢 | 奥平昌章に预け。子真田信音作为旗本存续之后断绝 |
酒井忠能 | 骏河田中藩4万石 | 1681年 | 在国中の逼塞 | 井伊直兴に预け。后得到赦免作为旗本存续 |
本多利长 | 远江横须贺藩5万石 | 1682年 | 不行迹、失政 | 村山藩に减转封 |
桑山一尹 | 大和新庄藩1.1万石 | 1682年 | 不敬 | 桑山一庆・桑山一英に预け |
德川德松 | 上野馆林藩25万石 | 1683年 | 无嗣廃绝 | |
土方雄隆 | 陆奥洼田藩1.8万石 | 1684年 | 御家騒动 | 榊原政邦に预け。弟土方雄贺作为旗本存续 |
有马丰祐 | 筑后松崎藩1万石 | 1684年 | 土方雄隆に连座 | 有马赖元に预け。所领は久留米藩に还付 |
稻叶正休 | 美浓青野藩1.2万石 | 1684年 | 刃伤、杀害 | |
松平重治 | 上总佐贯藩1.5万石 | 1684年 | 不正 | 保科正容に预け。子松平胜秀作为旗本存续 |
松平纲昌 | 越前福井藩47.5万石 | 1686年 | 乱心 | 江户鸟越に蛰居 前藩主の松平昌亲が减封のうえで藩主再任 |
沟口政亲 | 越后泽海藩1万石 | 1687年 | 乱心 | 加藤明英に预け |
那须资德 | 下野乌山藩2万石 | 1687年 | 家督相续问题 | 津軽信政に预け(后に旗本) |
佐久间胜亲 | 信浓长沼藩1万石 | 1688年 | 不敬 (诈病で侧小姓出仕を拒否) |
丹羽长次に预け |
喜多见重政 | 武蔵喜多见藩2万石 | 1689年 | 勤务怠慢 (喜多见重治に连座とも) |
松平定重に预け |
山内丰明 | 土佐中村藩3万石 | 1689年 | 不敬 | 青山忠重に预け |
本多政利 | 陆奥大久保藩1万石 | 1693年 | 失政 | 酒井忠真・水野忠之に预け |
水谷胜美 | 备中松山藩5万石 | 1693年 | 无嗣断绝 | 弟水谷胜时作为旗本存续 |
本多重益 | 越前丸冈藩4.3万石 | 1695年 | 家臣团の争论 | 池田仲澄に预け。后に旗本 |
小出重兴 | 和泉陶器藩1万石 | 1696年 | 无嗣断绝 | 叔父小出有仍作为旗本存续 |
小出英及 | 但马出石藩5万石 | 1696年 | 无嗣断绝 | |
森众利 | 美作津山藩18.6万石 | 1697年 | 発狂 | 森长直に预け。父森长继が赤穂藩2万石で再封 |
水野胜岑 | 备后福山藩10.1万石 | 1698年 | 无嗣断绝 | 傍系で高祖父のひ孙水野胜长が名迹を继ぎ、减转封し存续 |
伊丹胜守 | 甲斐德美藩1.2万石 | 1698年 | 自害 | |
伊达村和 | 陆奥中津山藩3万石 | 1699年 | 旗本との喧哗 | 伊达纲村に预け |
浅野长矩 | 播磨赤穂藩5.3万石 | 1701年 | 刃伤事件(赤穂事件) | 切腹。弟浅野长广作为旗本存续 |
松平忠充 | 伊势长岛藩1万石 | 1702年 | 乱心 | 子松平康郷作为旗本存续 |
前田利昌 | 加贺大圣寺新田藩1万石 | 1709年 | 刃伤事件 | 切腹。遗领归还给大圣寺藩 |
松平宗胡 | 越前高森藩5万石 | 1711年 | 无嗣断绝 | |
屋代忠位 | 安房北条藩1万石 | 1712年 | 失政(万石騒动) | 旗本 |
毛利元次 | 周防德山藩4.5万石 | 1715年 | 宗家との争论 | 户泽正庸に预け。1719年、子毛利元尧が再封 |
小笠原长邕 | 丰前中津藩4万石 | 1716年 | 无嗣断绝 | 弟小笠原长兴が安志藩立藩 |
浅野长経 | 安艺三次藩5万石 | 1719年 | 无嗣断绝 | 遗领は广岛藩に还付 |
黑田长清 | 筑前直方藩4万石 | 1720年 | 无嗣断绝 | 遗领は福冈藩に还付 |
浅野长寔 | 安艺三次藩5万石 | 1720年 | 无嗣断绝 | 遗领は广岛藩に还付 |
本多忠烈 | 大和郡山藩5万石 | 1723年 | 无嗣断绝 | |
水野忠恒 | 信浓松本藩7万石 | 1725年 | 刃伤事件 | 秋元乔房・水野忠谷に预け。 叔父水野忠谷が旗本、1765年大浜藩立藩 |
京极高寛 | 但马丰冈藩3.5万石 | 1726年 | 无嗣断绝 | 弟京极高永が1.5万石で再封 |
松平义真 | 陆奥梁川藩3万石 | 1729年 | 无嗣断绝 | 本家尾张藩の松平通春に再封、通春の尾张藩相续で廃藩 |
植村恒朝 | 上总胜浦藩1万石 | 1751年 | 虚伪报告 | 植村家道に预け。养子植村寿朝作为旗本存续 |
金森赖锦 | 美浓八幡藩3.8万石 | 1758年 | 藩内の騒动(郡上一揆) | 南部利雄に预け。子金森赖兴作为旗本存续 |
本多忠央 | 远江相良藩1万石 | 1758年 | 金森赖锦に连座 | 松平长孝に预け |
小堀政方 | 近江小室藩1万石 | 1788年 | 不正 | 大久保忠顕に预け。甥小堀政优作为旗本存续 |
酒井忠全 | 播磨姫路新田藩1万石 | 1817年 | 无嗣断绝 | |
本郷泰固 | 骏河川成岛藩1万石 | 1858年 | 勤务怠慢 (将军继嗣问题关连の处分とも) |
旗本 |
松平赖德 | 常陆宍户藩1万石 | 1864年 | 天狗党の乱の责任 | 切腹。明治になり父松平赖位が再封 |
林忠崇 | 上总请西藩1万石 | 1868年 | 新政府への反逆 | 江户唐津藩邸に幽闭 |
备考
脚注
- ^ 杣田善雄著. 日本近世の歷史 2. 将军权力の确立. 吉川弘文馆. 2012-01. ISBN 9784642064309. 已忽略文本“和书” (帮助)
- ^ 近藤瓶城 (编), 廃絶録, 国立国会图书馆デジタルコレクション 史籍集覧. 第11冊 请检查
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值 (帮助), 近藤出版部: 3, 1926 已忽略文本“和书” (帮助) - ^ 黑田基树‘羽柴を名乘った人々’KADOKAWA(角川选书)、2016年 pp.107-111, “青木重吉”
- ^ のち高直しにより6万石
- ^ 庆长15年(1610年)に领内再検地、幕府の了解を得て高直しにより36.9万石
- ^ 石高が确定するのは2代藩主・佐竹义隆の代からである。
- ^ キリシタンであったため、形式だけで切腹せず家臣の介错により讨たれたとの记录もある。