用户:Kanseihonbucho/鹿岛神宫
鹿岛神宫 | |
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鹿島神宮/かしまじんぐう Kashima Jingū | |
基本信息 | |
位置 | 茨城县鹿嶋市宫中2306-1 |
宗教 | 神道 |
主祭神 | 武瓮槌大神 |
例祭 | 9月1日 |
社格 | 式内社(名神大社)・常陆国一宫・官币大社・敕祭社・别表神社 |
札所等 | 东国三社 |
建立时间 | 传神武天皇1年(纪元前660年) |
鹿岛神宫(かしまじんぐう、鹿嶋神宫)は、茨城県鹿嶋市宫中にある神社。式内社(名神大社)、常陆国一宫。旧社格は官币大社で、现在は神社本庁の别表神社。
鹿岛神宫(かしまじんぐう)是位于日本茨城县鹿嶋市的神社。为式内社(名神大社)、常陆国一宫、旧社格为官币大社(现神社本厅的别表神社)。
全国にある鹿岛神社の総本社。千叶県香取市の香取神宫、茨城県神栖市の息栖神社とともに东国三社の一社[1]。また、宫中の四方拝で遥拝される一社である。
日本全国约600座鹿岛神社之总本宫。与千叶县香取市的香取神宫、茨城县神栖市的息栖神社并称为“东国三社”。同时也是宫中四方拜中遥拜的神社之一。
概要
茨城県南东部、北浦と鹿岛滩に挟まれた鹿岛台地上に镇座する。古くは‘常陆国风土记’に镇座が确认される东国随一の古社であり、日本神话で大国主の国譲りの际に活跃する武瓮槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神とすることで知られる。古代には朝廷から虾夷の平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬された。その神威は中世に武家の世に移って以后も続き、历代の武家政権からは武神として崇敬された。现在も武道では笃く信仰される神社である。
文化财のうちでは、“韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)”と称される长大な直刀が国宝に指定されている。また境内が国の史迹に、本殿・拝殿・楼门など社殿7栋が国の重要文化财に指定されているほか、多くの文化财を现在に伝えている。鹿を神使とすることでも知られる。
社名
神宫は常陆国鹿岛郡の地に镇座するが、その地名“カシマ”は、‘常陆国风土记’[原 1]では“香岛”と记载される[2]。风土记の中で、“香岛郡”の名称は“香岛の天の大神”(鹿岛神宫を指す)に基づくと说明されている[3]。“カシマ”を“鹿岛”と记した初见は养老7年(723年)[原 2]であり[4]、8世纪初头には“香岛”から“鹿岛”に改称されたと见られている[2]。この変化の理由は史书からは明らかでないが、神宫侧では神使の鹿に由来すると说明する[5]。この“カシマ”の由来には诸说がある。主な说は次の通り。
なお、神宫では现在社名に“岛”の字を用いているが、自治体の茨城県鹿嶋市は佐贺県鹿岛市との区别のため“嶋”の字が使用される。
祭神
祭神は次の1柱[6]。
祭神について
上记のように、鹿岛神宫の主祭神はタケミカヅチ(武瓮槌/建御雷)であるとされる。タケミカヅチの出自について、‘古事记’[原 6]では、イザナギ(伊弉诺尊)がカグツチ(轲遇突智)の首を切り落とし、剣についた血が岩に飞び散って生まれた3神のうちの1神とする[8](日本书纪[原 7]ではここでタケミカヅチ祖のミカハヤヒが生まれたとする)。また、天孙降临に先立つ苇原中国平定においては、アメノトリフネ(天鸟船神:古事记)またはフツヌシ(経津主神:日本书纪)とともに活跃したという[9]。その后、神武东征に际してタケミカヅチはイワレビコ(神武天皇)に神剣(フツノミタマ)を授けた[7]。ただし‘古事记’・‘日本书纪’には鹿岛神宫に関する言及はないため、タケミカヅチと鹿岛との関系は明らかでない[10]。
一方、‘常陆国风土记’[原 1]では鹿岛神宫の祭神を“香岛の天の大神(かしまのあめのおおかみ)”と记し、この神は天孙の统治以前に天から下ったとし、记纪の说话に似た伝承を记す[11]。しかしながら、风土记にもこの神がタケミカヅチであるとの言及はない[12]。
神宫の祭神がタケミカヅチであると记した文献の初见は、‘古语拾遗’[原 8](807年成立)における“武瓮槌神云々、今常陆国鹿岛神是也”という记述である[14]。ただし、‘延喜式’(927年成立)の“春日祭祝词”[原 9]においても“鹿岛坐健御贺豆智命”と见えるが、この“春日祭祝词”は春日大社の创建といわれる神护景云2年(768年)[注 1]までさかのぼるという说がある[15]。以上に基づき、8世纪からの虾夷平定が进むにつれて地方神であった“香岛神”に中央神话の军神であるタケミカヅチの神格が加えられたとする说があるほか[16]、中央の国譲り神话自体も常陆に下った“香岛神”が中臣氏によって割り込まれて作られたという说がある[17]。
神宫の祭神は、タケミカヅチが国土平定に活跃したという记纪の说话、武具を献じたという风土记の说话から、武神・军神の性格を持つと见なされている[18]。特に别称“タケフツ”や“トヨフツ”に関して、“フツ”という呼称は神剣のフツノミタマ(布都御魂/韴霊)の名に见えるように“刀剣の锐い様”を表す言叶とされることから、刀剣を象徴する神とする说もある[19]。鹿岛神宫が军神であるという认识を表すものとしては、‘梁尘秘抄’(平安时代末期)の“関より东の军神、鹿岛・香取・诹访の宫”[原 10]という歌が知られる[14]。一方、船を纳めさせたという风土记の记述から航海神としての一面や[11]、祭祀集団の卜氏が井を掘ったという风土记の记述から农耕神としての一面の指摘もある[15]。以上を俯瞰して、军神・航海神・农耕神といった复合的な性格を持っていたとする说もある[15]。
特徴
鹿岛神宫は、下総国一宫の香取神宫(千叶県香取市、Template:ウィキ座标)と古来深い関系にあり、“鹿岛・香取”と并び称される一対の存在にある[20]。
鹿岛・香取の両神宫とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威は、両神宫が军神として信仰されたことが背景にある[21]。古代の関东东部には、现在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手贺沼を含む一帯に香取海という内海が広がっており、両神宫はその入り口を扼する地势学的重要地に镇座する。この香取海はヤマト政権による虾夷进出の输送基地として机能したと见られており[21]、両神宫はその拠点とされ、両神宫の分霊は朝廷の威を示す神として东北沿岸部の各地で祀られた(后述)。鹿岛神宫の社殿が北を向くことも、虾夷を意识しての配置といわれる[22]。
朝廷からの重要视を示すものとしては、次に示すような事例が挙げられる。
また、藤原氏からの崇敬も特徴の1つである。鹿岛には藤原氏前身の中臣氏に関する伝承が多く残るが、藤原氏祖の藤原镰足もまた常陆との関系が深く、‘常陆国风土记’[原 13]によると常陆国内には镰足(藤原内大臣)の封戸が设けられていた。また‘大镜’(平安时代后期)[原 14]を初见として镰足の常陆国出生说もあり[23]、神宫境外末社の津东西社迹近くに镇座する镰足神社(鹿嶋市指定史迹、Template:ウィキ座标)はその出生地と伝えられる[24]。藤原氏の氏社として创建された奈良の春日大社では、鹿岛神が第一殿、香取神が第二殿に勧请されて祀られ[25]、藤原氏の祖神たる天児屋根命(第三殿)よりも上位に位置づけられた。
その后、中世に武家の世に入ってからも両神宫は武神を祀る神社として武家から信仰された。现代でも武术方面から信仰は强く、道场には“鹿岛大明神”・“香取大明神”と书かれた2轴の挂轴が対で掲げられることが多い。
历史
创建・伝承
创建について、鹿岛神宫の由绪‘鹿岛宫社例伝记’(镰仓时代)や古文书(応永32年(1425年)の目安)では神武天皇元年に初めて宫柱を建てたといい[26]、神宫侧ではこの神武天皇元年を创建年としている[27]。
一方‘常陆国风土记’[原 1]にも神宫の由绪が记载されており、“香岛の天の大神”が高天原より香岛の宫に降临したとしている[14]。また、この“香岛の天の大神”は天の大神の社(现・鹿岛神宫)、坂戸の社(现・摂社坂戸神社)、沼尾の社(现・摂社沼尾神社)の3社の総称であるともする[14]。その后第10代崇神天皇の代には、大中臣神闻胜命(おおなかとみかむききかつ)が大坂山で鹿岛神から神托を受け、天皇は武器・马具等を献じたという[14]。さらに第12代景行天皇の代には、中臣臣狭山命が天の大神の神托により舟3只を奉献したといい、これが御船祭(式年大祭)の起源であるとされる[14]。
概史
飞鸟时代
‘常陆国风土记’[原 1]には鹿岛社に多くの神戸、すなわち祭祀维持のための付属の民戸が设置されたことが见える[14]。また风土记では、大化5年(649年)に神郡として香岛郡(鹿岛郡)が成立し、天智天皇年间(668年-672年)には初めて使いが遣わされて造営のことがあったと记す[14]。以上の背景としては大化の改新后の新政による朝廷の东国経営强化が考えられ、改新を契机として朝廷は鹿岛社とつながりを深め、天智朝の社殿造営を大きな画期としたと见られている[14]。
このような朝廷との结びつきには、中臣氏の存在が背景にあったと指摘される[14]。中臣氏は6世纪后半から7世纪初头に祭祀制度の再编を行なっており、これに伴って东国に中臣部や卜部といった部民を定め、一地方神であった鹿岛社の祭祀を掌握したと见られている[14]。実际、史料には鹿岛郡司や社の神职に中臣姓の人物が多く存在する[14]。そして、大化の改新后に中臣氏は政治的に跃进し、鹿岛社も朝廷との関系を深めたという[14]。中臣氏进出以前の祭祀氏族については诸说あるが、明らかではない(“考证”节参照)。
鹿岛神が朝廷の东国経営で大きな役割を果たした様子を表すものとしては、后世の‘日本三代実录’[原 15]や‘延喜式’神名帐[原 16]に记される、陆奥国内の多くの鹿岛神の苗裔神(御子神)の存在が指摘される[14](“鹿岛苗裔神”节参照)。その记载から、鹿岛神は国土平定の武神・水神として太平洋沿岸部を北上し、その过程で各开拓地で祀られ、最终的に今の宫城県石巻市付近まで影响力を及ぼしたとされる[28]。
奈良时代
奈良时代には、史书に多数の神戸の记事が载る(“社领”节参照)。またこの时代、鹿岛社は藤原氏から氏神として特に崇敬された。神护景云2年(768年)には奈良御盖山の地に藤原氏の氏社として春日社(现・春日大社)が创建されたといい[注 1]、鹿岛から武瓮槌神(第一殿)、香取から経津主命(第二殿)、枚冈から天児屋根命(第三殿)と比売神(第四殿)が勧请された[25]。これら4柱のうち特に鹿岛神が主神で、春日社の元々の祭祀も鹿岛社の遥拝に発したと见られている[25]。その后も藤原氏との関系は深く、宝亀8年(777年)[原 17]の藤原良継の病の际には“氏神”の鹿岛社に対して正三位の神阶が奉叙されている[11]。
平安时代
平安时代以降の神阶としては、承和3年(836年)[原 18]に正二位勲一等、承和6年(839年)[原 19]に従一位勲一等の记事が见える[14]。嘉祥3年(850年)[原 20]には、春日社の建御贺豆智命は正一位に达した[14](勧请元の鹿岛社も同时に叙せられたという见方もある[29])。
延长5年(927年)成立の‘延喜式’神名帐[原 21]では常陆国鹿岛郡に“鹿岛神宫 名神大 月次新尝”と记载されて式内社(名神大社)に列したほか、月次祭・新尝祭では币帛に预かっていた[14]。なお、神名帐で当时“神宫”の称号で记されたのは、大神宫(伊势神宫)・香取神宫と鹿岛神宫の三社のみであった[23]。また、常陆国内では一宫に位置づけられるようになっていった[注 3]。
镰仓时代から江戸时代
鹿岛神宫は武神を祀るため、中世の武家の世にも神威は维持され、历代の武家政権や大名から崇敬を受けた[14]。源赖朝から多くの社领が寄せられたように、神宫には武家からの奉币や所领の寄进が多く确认される[14]。その反面、武家による神宫神职への进出や神领侵犯も度々行われており[14]、赖朝により武家の鹿岛氏(常陆大掾氏一族)が惣追捕使に任命されて神宫経営に入り込んだことを発端として、藤原氏の影响下からは离れていった[14][18]。室町时代には、武家政権の神领寄进に平行して在地势力による侵犯が进み、社殿造営费用にも欠く状态であったという[14]。
江戸时代には江戸幕府からの崇敬を受け、庆长10年(1605年)には徳川家康により本殿(现・摂社奥宫の社殿)が造営された[14]。元和5年(1619年)には徳川秀忠により现在の社殿一式、寛永11年(1634年)には徳川赖房により楼门等が造営された[14]。
明治以降
明治维新后、明治4年(1871年)に近代社格制度において官币大社に列した[30]。戦后は神社本庁の别表神社に列している。
昭和43年(1968年)には、明治维新后百年の记念として茨城県笠间市产の御影石を用いて大鸟居(二の鸟居)が建て替えられた[31]。昭和61年(1986年)には、境内が国の史迹に指定された[32]。
平成23年(2011年)3月11日に発生した东北地方太平洋冲地震およびその余震により、石造の大鸟居(二の鸟居)と御手洗池の鸟居が倒壊し、境内の石灯笼64基も崩れたほか、本殿の千木も被害を受け、被害総额は1亿700万円に上った[33][34]。その后、境内の杉を用いて大鸟居が再建され、平成26年(2014年)6月に竣工祭が执り行われている[31]。
なお平成23年度には、境内北西辺の祈祷殿・社务所の建て替えに伴い、境内で初めての大规模な発掘调查が実施された。この时には奈良时代に溯る锻冶関连を始めとする遗构・遗物のほか、时代ごとに几度も整地がなされた様子が认められた[35]。
神阶
年 | 鹿岛神 | 香取神 |
---|---|---|
777年 | 正三位 | 正四位上 |
782年 | 勲五等 | -- |
836年 | 従二位勲一等 →正二位勲一等 |
従三位 →正二位 |
839年 | 従一位勲一等 | 従一位 |
850年 | 正一位? (正一位勲一等?) |
正一位? |
882年 | -- | 正一位勲一等 |
神职
‘常陆国风土记’[原 1]にも见えるように、古代常陆には中臣部・卜部が多く住んでおり、神职を兼ねる者も多かったとされる[40]。天平18年(746年)[原 23]には、これら当地に住む中臣部20烟・卜部5烟に“中臣鹿岛连”姓が下赐されている[14]。以后の神宫の主な神职は、この在地の中臣鹿岛氏(中臣氏)と中央の大中臣氏が担っていった。职制について延长5年(927年)成立の‘延喜式’[原 24][原 25]では、神宫の职制は宫司1人、祢宜1人、祝1人、物忌1人からなるとし、宫司は従八位に准じるとしている[14]。
镰仓时代に入り、源赖朝により常陆大掾氏一族の鹿岛氏が惣大行事に任じられた[11]。それまで神职の补任権は基本的に藤原氏が担っていたが、この武家の进出によりその影响下からは离れることとなった[11]。
文永3年(1266年)の“诸神官补任之记”によれば、当时の神宫の神职には大宫司を笔头として、大祢宜、物忌及びその父(千富祢宜)、惣大行事、検非违使・惣追捕使・押领使、宫介・権祢宜・和田権祝・益田祝・惣申権祝・田所権祝、案主3人その他、神夫・郷长・判官など、50人は軽く超える数がいたという[11]。
主な职は次の通り。
- 大宫司
- “だいぐうじ”。神宫の最高责任者[41]。
- 古くは中央の大中臣氏から补任されていたが、长元年间(1028年-1037年)から大中臣氏と中臣氏(中臣鹿岛氏)が交互に务めるようになり、建长年间(1249年-1256年)以后は中臣氏が世袭した(近世に塙氏を称する)[14]。
- 大祢宜
- “おおねぎ”。庶务をすべ、神体奉戴や献馔も行なった[41]。
- 贞観8年(866年)には祢宜が确认され、承安年间(1171年-1175年)を大祢宜の初めとして、以后中臣氏が世袭した(近世に羽生氏を称する)[14]。一时期に鹿岛氏(常陆大掾氏)も担っていた[40]。
- 中世以后は大宫司よりも多くの所领を有しており、神宫で実质的に最も実力を持った[42]。
- 物忌
- “ものいみ”。本殿内阵奉仕役[41]。
- 古くは神职の未婚の娘から卜定され、中世末からは当祢宜(千富祢宜・物忌代とも)の女が选ばれた[14]。当祢宜(物忌の父)は本来中臣氏であったが、中世末に千叶氏流の东氏が継ぎ、物忌の后见役として重きをなした[14]。
- 物忌は人目に触れるべきでない存在で、数ある神宫の祭事の中でも、本宫祭(御戸开き神事)、奥宫祭、流镝马祭、大宫祭、将军祭、大生宫祭の年6回しか出舆しなかったという[43]。初代物忌は神功皇后の娘の普雷女(あまくらめ)であると伝えられ[44]、终身职であったため、明治の廃绝までで総势27人を数えるのみであったという[26]。かつて物忌が住した物忌馆(ものいみやかた)は、迹宫(境外摂社)の傍とされる[14]。
社领
‘常陆国风土记’[原 1]や‘延喜式’[原 12]によれば、神宫の镇座する常陆国鹿岛郡は神郡、すなわち郡全体が神宫の神领に指定されていた。
また‘常陆国风土记’[原 1]には、神戸すなわち祭祀维持のための付属の民戸について次の记载がある[14]。
- 孝徳天皇以前、8戸
- 孝徳天皇年间(645年-654年)、50戸増(计58戸)
- 天武天皇年间(673年-686年)、9戸増(计67戸)
- 持统天皇4年(690年)、2戸减(计65戸) - ‘庚寅年籍’作成の影响と见られる[14]。
- 天平宝字2年(758年)、神奴218人を神戸とする (‘続日本纪’)[原 26]
- 天平神护元年(765年)、鹿岛社から神戸20戸を春日社に寄进 (‘新抄格敕符抄’)[原 27]
- 神护景云元年(767年)、男80人・女75人の神賎を良民に编入 (‘続日本纪’)[原 28]
- 宝亀4年(773年)、神賎105人と良民の婚姻を禁止 (‘続日本纪’)[原 29]
- 宝亀11年(780年)、脱漏した神賎774人の神戸编入を认め、神司が良民を神賎とすることを禁止 (‘続日本纪’)[原 30]
- 延暦元年(782年)、陆奥国に神戸2戸 (‘新抄格敕符抄’)[原 27]
- 延暦5年(786年)、神戸105戸・神賎戸50烟・课685人・不课2,676人 (‘新抄格敕符抄’)[原 27]
平安时代、藤氏长者は职封より10戸の寄进を例としたという[42]。平安时代末期以降は、各神官がそれに付属する所领と私领を世袭した[42]。
中世には神领侵犯が度々行われ、社殿造営费用にも欠く状态であったという[14]。のちに豊臣秀吉により侵犯は停止され、文禄4年(1595年)の検地で社领は405石と定められた[14]。
徳川家康からは庆长7年(1602年)に1,500石が加増され、社领は2,000石に及んだ(うち大宫司100石、当祢宜300石、大祢宜・大祝各40石)[14][42]。
社殿造営
社殿の造営について、‘常陆国风土记’[原 1]では天智天皇年间(668年-672年)にすでに造営のことが见える。
‘鹿岛长暦’によれば大宝元年(701年)に正殿・仮殿が造営されたといい、この时から20年に1度の式年造営が定められたという[11]。この式年造営では、现在の本宫と奥宫の社地を交互に社殿地としたとされる[26]。造営内容は、弘仁3年(812年)[原 31]に社殿すべての造替から正殿のみの造替に変更された[11]。その后も‘日本三代実录’贞観8年(866年)の记事[原 15]、‘延喜式’临时祭[原 32]に造営の旨が见える[11]。‘日本三代実录’の记事によると、その用材には材木5万余枝、工夫16万余人、料稲18万余束を要したという[45]。
‘鹿岛町史’によれば、平安时代から戦国时代までの造営の年次は贞観8年(866年)、天庆3年(940年)、长和4年(1015年)、天永2年(1111年)、承安3年(1173年)、建暦元年(1211年)、弘长3年(1263年)、弘安5年(1282年)、正応2年(1289年)、正和4年(1315年)、元亨3年(1323年)、応永25年(1418年)、永享7年(1435年)、大永2年(1522年)、永禄2年(1559年)に确认される[11]。
庆长10年(1605年)には徳川家康により本殿、元和5年(1619年)には徳川秀忠により社殿一式、寛永11年(1634年)には徳川赖房により楼门等が造営された[14]。
境内
神宫の镇座する地は“三笠山(みかさやま)”と称される[46]。この境内は日本の历史上重要な遗迹であるとして、国の史迹に指定されている(摂社坂戸神社境内、摂社沼尾神社境内、鹿岛郡家迹も包括)[32]。
境内の広さは约70ヘクタールである[6]。このうち约40ヘクタールは郁苍とした树丛で、“鹿岛神宫树丛”として茨城県指定天然记念物に指定されている[47][33]。树丛には约800种の植物が生育しており、神宫の长い历史を象徴するように巨木が多く、茨城県内では随一の常绿照叶树林になる[47]。
社殿
主要社殿は、本殿・石の间・币殿・拝殿からなる。いずれも江戸时代初期の元和5年(1619年)、江戸幕府第2代徳川秀忠の命による造営のもので、幕府栋梁の铃木长次の手による。币殿は拝殿の后方に建てられ、本殿と币殿の间を“石の间”と呼ぶ渡り廊下でつなぐという、复合社殿の形式をとっている。楼门を入ってからも参道は真っ直ぐ东へと伸びるが、社殿はその参道の途中で右(南)から接続する特殊な位置関系にある[48]。このため社殿は北面するが、これは北方の虾夷を意识した配置ともいわれる[49][50][22]。
本殿は三间社流造、向拝一间で桧皮葺。漆涂りで柱头・组物等に极彩色が施されている[50]。元和5年(1619年)の造営までは、现在の奥宫の社殿が本殿として使用されていた。本殿は北面するが、内部の神座は本殿内阵の南西隅にあって参拝者とは相対せず东を向くといい(下図参照)、出云大社本殿との関连が指摘される[51](ただし神主らの参入形式の本殿では上代の宫殿にならい正面から见て横向きに建物を使う例が多い[52])。‘鹿岛宫社例伝记’によると、本殿は古くは普段开かれない“不开御殿(あかずのごてん)”と记され、毎年1月7日にのみ物忌によって戸が开かれ币を交换されたという[53]。この本殿の背后には杉の巨木の神木が立っており、树高43メートル・根回り12メートルで树齢约1,000年といわれる[47]。そのさらに后方、玉垣を介した位置には“镜石(かがみいし)”と呼ばれる直径80センチメートルほどの石があり、神宫创祀の地とも伝えられている[14]。
石の间は桁行二间、梁间一间、一重、切妻造、桧皮葺で、前面は币殿に接続する。本殿同様、漆涂りで极彩色が施されている。币殿は桁行二间、梁间一间、一重、切妻造、桧皮葺で、前面は拝殿に接続する。拝殿は桁行五间、梁间三间、一重、入母屋造、向拝一间、桧皮葺。币殿・拝殿は、本殿・石の间と异なり漆や极彩色がなく、白木のままの简素な意匠である。これら本殿・石の间・币殿・拝殿は国の重要文化财に指定されている[50]。
拝殿の右前方には南面して仮殿(かりどの)が建てられている。仮殿は“権殿”とも记され、本殿造営の际に一时的に神霊を安置するために使用される社殿である。この仮殿は、元和5年(1619年)に现在の本殿が造営される际、本殿同様に幕府栋梁の铃木长次の手によって建てられたものである。构造は桁行三间、梁间二间、一重、入母屋造、向拝一间、桧皮葺。仮殿であるため比较的简素な作りであるが、一部には漆彩色が施されている。なお、造営当初は拝殿の左前方にあって西面していたというが、再三位置を変えた末、昭和26年(1951年)に现在の位置に定まった。この仮殿は国の重要文化财に指定されている[54]。
境内の参道には西面して楼门があるが、この楼门は“日本三大楼门”の1つに数えられる[注 4]。寛永11年(1634年)、初代水戸藩主の徳川赖房の命による造営のもので、栋梁は越前大工の坂上吉正。构造は三间一戸(扉口は省略)、入母屋造の2阶建てで、现在は铜板葺であるが元は桧皮葺であったという。総朱漆涂りであり、彩色はわずかに栏间等に饰るに抑えるという控え目な意匠である。扁额“鹿岛鸟居”は东郷平八郎の书になる。楼门左右の回廊は楼门と同时の作であるが、のちに札所が増设されている。この楼门は国の重要文化财に指定され、回廊は鹿嶋市指定文化财に指定されている[55]。
境内入り口にある大鸟居は、4本の杉を用い、高さが10.2メートル、幅が14.6メートルの大きさである。元々は笠间市产の御影石を用いた石鸟居であったが、平成23年(2011年)3月11日に発生した东北地方太平洋冲地震およびその余震により根元から倒壊した。これを受けて、神宫境内から杉の巨木4本を伐り出して再建され、记录が残る1664年から数えて11度目の建て替えとなった。大鸟居は、2本の円柱の上に丸太状の笠木を载せ、贯のみを角形として柱の外に突き出させる等の特徴があり、この形式は“鹿岛鸟居”と称されている[56]。用いられた杉の树齢は、左右の柱が约500年、笠木が约600年、贯が约250年である。柱の土台部分にあたる亀腹石(かめばらいし)には、倒壊した鸟居の石が用いられている[31][57]。
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社殿全景
本殿后背には神木。 -
本殿平面図
要石
要石(かなめいし)は、境内东方に位置する霊石。古来“御座石(みまいし)”や“山の宫”ともいう[14]。地上では直径30センチメートル・高さ7センチメートルほどで、形状は凹型[58]。
かつて、地震は地中に栖む大鲶(おおなまず)が起こすものと考えられていたため、要石はその大鲶を押さえつける地震からの守り神として信仰された[59][60]。要石は大鲶の头と尾を抑える杭であるといい、见た目は小さいが地中部分は大きく决して抜くことはできないと言い伝えられている[59]。‘水戸黄门仁徳录’によれば、水戸藩主徳川光圀が7日7晩要石の周りを掘らせたが、穴は翌朝には元に戻ってしまい根元には届かなかったという[59]。过去に神无月に起きた大地震のいくつかは、鹿岛神が出云に出向いて留守のために起きたという伝承もある[61]。
なお、香取神宫には凸型の要石があり、同様の说话が伝えられる[62]。この要石は“鹿岛七不思议”の1つに数えられている[58]。
鹿岛神宫と地震に関しては、建久9年(1198年)の“伊势暦”に咏み人知らずとして见える、次の地震歌が知られる[63]。
“ | ゆるぐとも よもやぬけじの 要石 鹿岛の神の あらん限りは | ” |
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また康元元年(1256年)に藤原光俊(叶室光俊)が神宫を访れた际、要石を“石の御座(みまし)”として、次の歌を歌っている[64]。
“ | 寻ねかね 今日见つるかな 千劔破(ちはやぶる) 深山(みやま)の奥の 石のみましを | ” |
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御手洗池
御手洗池(みたらしいけ)は、神宫境内の东方に位置する神池。洁斎(禊)の地[58]。古くは西の一の鸟居がある大船津から舟でこの地まで进み、洁斎をしてから神宫に参拝したと考えられており[14]、“御手洗”の池名もそれに由来するとされている[58]。
池には南崖からの涌水が流れ込み、水深は1メートルほどであるが非常に澄んでいる[65]。この池に大人が入っても子供が入ってもその水深は乳を越えないといわれ、“鹿岛七不思议”の1つに数えられている[58]。
鹿园
境内には鹿园があり、神使(神の使い)の30数头の日本鹿が饲育されている[5]。
‘古事记’によると、天照大神の命をタケミカヅチに伝えたのは天迦久神(あめのかくのかみ)とされる[5]。この“カク”は“鹿児(かこ)”すなわち鹿に由来する神とされる[66]ことに基づき、神宫では鹿を使いとするという[5]。また、神宫の社名が“香岛”から“鹿岛”に変化したことについても、神使の鹿に由来するといわれる[5]。春日大社の创建に际しては、神护景云元年(767年)に白い神鹿の背に分霊を乘せ多くの鹿を引き连れて出発し、1年かけて奈良まで行ったと伝えられており、奈良の鹿も鹿岛神宫の発祥とされている[67]。この鹿岛立の様子は、春日曼荼罗の“鹿岛立神影図”でも知られる[68]。
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鹿园
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鹿岛立神影図
(春日大社蔵)
参道
鹿岛神宫の一の鸟居は古くは东西南北に4基があったが、现在は东西南の3基である[69]。西の一の鸟居は北浦湖畔の鹿嶋市大船津にあり、鳄川の中にある(Template:ウィキ座标)[69]。古くから大船津は神宫参拝者の船着场であったため[70]、神宫の门前町もこちらの西方侧に広がっている。中世にこれらの町が形成される以前は、大船津の津东西社から舟で御手洗池まで进み、そこで洁斎して参宫したと考えられている[14]。现在の鸟居は平成25年(2013年)6月の再建で、昭和期に堤防整备により水上から陆上に移っていたが、平成26年(2014年)の御船祭に向けて改めて水上に建て替えられたものである[69]。この鸟居は川底からの高さ18.5メートル、幅22.5メートルという大规模なもので水上鸟居としては日本最大级である[69]。御船祭の际にはここから御座船が出発する。
东の一の鸟居は太平洋に面する明石の浜にある(Template:ウィキ座标)[69]。伝承では、武瓮槌・経津主両神はこの明石の浜に上陆し、経津主神は沼尾から望まれる香取へ、武瓮槌神は沼尾から现在の本宫へと移ったという[71]。
そのほか、南の一の鸟居は古くは神栖市日川にあったが、现在では息栖神社の一の鸟居が代用されている(Template:ウィキ座标)[69]。北の一の鸟居は神戸原にあったものの久しく失われていたが[69]、平成29年(2017年)に戸隠神社(鹿嶋市浜津贺)前に新たに建てられている(Template:ウィキ座标)[72]。
摂末社
摂末社・所管社は、摂社7社(境内3社、境外4社)・末社15社(境内8社、境外7社)・所管社1社(境内1社)の计23社[73]。
摂社
- 奥宫
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- 祭神:武瓮槌大神荒魂
- “おくのみや”。本宫社殿からさらに参道を进んだ先に、本宫本殿同様に北面して镇座する境内摂社(Template:ウィキ座标)。‘吾妻镜’[原 33]では仁治2年(1241年)の火灾で“不开御殿奥御殿等は焼かず”という记录があり、この“不开御殿(あかずのごてん)”は本殿、“奥御殿”は奥宫を指すとして镰仓时代にはすでに奥宫が存在したと见られている[74][14]。
- 现在の社殿は、江戸时代初期の庆长10年(1605年)徳川家康により関ヶ原戦胜时の御礼として建てられた本宫の旧本殿である[75]。元和5年(1619年)の造替により现在地に移され奥宫本殿とされた[75]。构造は三间社流造で一间の向拝を付するが、のちの修理の际に现本殿に仿って改造が施されたと见られている[75]。総白木作りの简素な意匠であるが、雕刻には桃山时代の大胆な気风も见える[75]。境内の社殿では最も古く、国の重要文化财に指定されている[75]。
- 高房神社
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- 祭神:建叶槌神
- “たかふさじんじゃ”。本宫の社殿正面に镇座する境内摂社(Template:ウィキ座标)。本殿に诣でる前に参拝するのが古例とされる[76]。
- 祭神は、‘日本书纪’によれば天香香背男讨伐において武瓮槌神によって派遣され活跃したといい、静神社(常陆国二宫)では主祭神として祀られている。
- 现在の社殿は元和5年(1619年)の本殿造替とともに造営されたと伝える[76]。この神社は、镇座位置や祭神の関系から摂社のうちでもかなり古い存在と考えられている[77]。
- 三笠神社
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- 祭神:三笠神
- “みかさじんじゃ”。本殿の东胁に镇座する境内摂社(Template:ウィキ座标)。三笠神社の由来は祭神も含めて古来定かでない[77]。神宫侧では、当地を“三笠山”と称することから地主神と推察している[78]。この“三笠山”の呼称に関しては、奈良の三笠山(御盖山)との関系性が指摘される[78]。
- 迹宫
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- 镇座地:鹿嶋市神野(かの)(Template:ウィキ座标)
- 祭神:武瓮槌大神荒魂
- “あとのみや”。境外摂社。社名は“荒祭宫”とも。古くは祭神は大曲津命(おおまがつのみこと)とされていた[10]。鹿岛神の最初の降临地と伝えられ、奈良春日への勧请の际に武瓮槌神はここから出発したという[78]。かつて迹宫の傍らには、神宫の祭祀を司る女性斎主(物忌)が住む“物忌馆(ものいみやかた)”があった[78][14]。
- 坂戸神社
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- 镇座地:鹿嶋市山之上(Template:ウィキ座标)
- 祭神:天児屋命
- “さかとじんじゃ”。境外摂社。‘常陆国风土记’[原 1]には本宫・沼尾神社と坂戸神社の三社をもって“香岛天大神”と総称されたと见える[14]。祭神は‘常陆国风土记’に记载のある大中臣神闻胜命の祖神で、中臣氏・藤原氏の氏神である[79]。
- 本殿は平入り、拝殿は妻入り[80]。社殿は东面しており、东一の鸟居(明石の浜)と正対するのは坂戸神社であるという指摘がある[10]。坂戸神社境内は国の史迹に指定されている(本宫境内に包括)[32]。なお、本宫境内には坂戸神社の遥拝所がある。
- 沼尾神社
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- 镇座地:鹿嶋市沼尾(Template:ウィキ座标)
- 祭神:経津主神
- “ぬまおじんじゃ”。境外摂社。‘常陆国风土记’[原 1]には本宫・坂戸神社と沼尾神社の三社をもって“香岛天大神”と総称されたと见える[14]。祭神は香取神宫の主祭神で、武瓮槌神とともに东国を开いたとされる。伝承では、武瓮槌・経津主両神は明石の浜に上陆し、経津主神はここから香取へ、武瓮槌神は现在の本宫へと移ったという[71]。
- 沼尾神社のかつての本殿は元和5年(1619年)の造替で奥宫から移されたものであったが[81]、现在の本殿は昭和28年(1953年)の改筑によるもので、拝殿は妻入り[82]。境内后方には风土记にある“沼尾池”の面影が残っている[82](江戸期にはすでに枯渇[10])。后述(“考证”节)のように、この沼尾池并びに沼尾神社が鹿岛神の本源とする说もある[14]。沼尾神社境内は国の史迹に指定されている(本宫境内に包括)[32]。なお、本宫境内には沼尾神社の遥拝所がある。
- 息栖神社
- “いきすじんじゃ”。境外摂社。岐神は东国开拓の际に武瓮槌大神を出云から东国へ、天鸟船神は国譲りの际に武瓮槌大神を出云へそれぞれ先导した神と伝える[83]。“息栖”とは“冲洲(おきす)”の転讹、すなわち香取海に浮かぶ冲洲に祀られていたことに由来するとされる[84](详细は“息栖神社”を参照)。
末社
境内社
- 须贺社(すかのやしろ) - 祭神:素戋呜命
- 津东西社(つのとうざいのやしろ) - 祭神:高龗神・暗龗神
- 古くは“アイロコイロの社”と呼ばれた[85]。元は鹿嶋市大船津に位置する境外社で、迹地に石碑を残す(Template:ウィキ座标)。
- 祝词社(のりとのやしろ) - 祭神:太玉命
- 熊野社(くまののやしろ) - 祭神:伊弉诺命・事解男命・早玉男命
- 稲荷社(いなりのやしろ) - 祭神:保食神
- 热田社(あつたのやしろ) - 祭神:素戋呜命・稲田姫命
- 御厨社(みくりやのやしろ) - 祭神:御食津神
- 大黒社(だいこくのやしろ) - 祭神:大国主命
境外社
- 年社(としのやしろ、鹿嶋市宫下、Template:ウィキ座标) - 祭神:大年神
- 潮社(いたのやしろ、鹿嶋市下津、Template:ウィキ座标) - 祭神:高仓下神
- 阿津社(あづのやしろ、鹿嶋市钵形、Template:ウィキ座标) - 祭神:活津彦根
- 国主社(くぬしのやしろ、鹿嶋市宫中、Template:ウィキ座标) - 祭神:大国主命
- 海辺社(うべのやしろ、鹿嶋市神野、Template:ウィキ座标) - 祭神:蛭子命
- 押手社(おしでのやしろ、鹿嶋市城山、Template:ウィキ座标) - 祭神:押手神
- 鹫宫(わしのみや、鹿嶋市神野、Template:ウィキ座标) - 祭神:天日鹫命
所管社
祭事
式年祭
式年大祭として、御船祭(みふねさい)が12年に1度の午年に行われる[87]。御船祭は応神天皇の时代に祭典化されたと伝えられ[88]、神宫における最大の祭典とされている[89]。祭は戦国时代に中绝したが、明治3年(1870年)に再兴された[14][90]。
- 9月1日午前、天皇から遣わされる敕使の参向を仰いで例大祭を执行。
- 2日早朝、鹿岛神宫を进発した神舆は陆路を北浦湖岸の大船津に到着。大船津で神舆が龙头の饰り等を施した御座船(ござぶね)に载せられ、多くの供奉船を従えて水上渡御し、香取市加藤洲に至る。そこで香取神宫の御迎祭を受けた后、再び同じ水路を还幸して行宫に戻る。
- 3日午后、行宫から本殿へと还幸。
年间祭事
- 白马祭
- “おうめさい”。1月7日、中祭。
- かつて神宫では、元旦から6日までは祭神は眠っているとして祭事を控え、祭神の目覚める1月7日に物忌によって不开御殿(本殿)を开ける“御戸开き神事”が行われた[92]。その际邪気祓いのため白马が静かに曳き回されたが、次第に御戸开きの键の音が闻こえないよう荒々しく回すようになったという[92]。现在では御戸开き神事は行われないが、代わりに“白马祭”として、东神门から楼门まで白马で駆け抜ける神事が行われる[92]。
- 祭头祭
- “さいとうさい”。3月9日、大祭。
- 天武天皇の顷に始まると伝え、防人が鹿岛立をする际の姿を再现したものであるという[26]。祭は神宫の南北66郷(现在は北郷24、南郷26)から卜定で选ばれた2郷が神宫に奉仕を行う[6]。5歳位の新発意(しぼち)を先头に立てた色鲜やかな集団により、神前まで祭头ばやしが行われる[93]。祭は国の选択无形民俗文化财に选択されている[93]。
なお、鹿岛神宫の祭祀は古くは伊势神宫同様に庭上祭祀であり、明治以降に殿上祭祀に改められている[26]。
神宝
鹿岛神宫の中でも极めて重视される神宝2例について绍介する。その他の主な神宝については、“文化财”节を参照。
韴霊剣
韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)は、神宫に伝えられている神剣[95]。别称を“平国剣(くにむけのつるぎ)”[96]。国宝に指定されており、指定名称は“直刀・黒漆平文大刀拵(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ) 附 刀唐柜”[97]。古くより神宝として本殿内阵で秘められていた[97]。
长大な直刀で、柄(つか)・鞘を含めた全长は2.71メートル、刃长は2.24メートルを测る。制作年代は定かでないが、刀身は奈良时代から平安时代、拵えは平安时代の作と见られている[97]。现存する伝世品(出土品でない)の日本刀の中では古例の1つであり、また刃长の点では最大の作品とされる。长大な刀身を作るために、途中4か所で刀身を繋ぎ合わせるという极めて珍しい手法を使っていることが判明しており、技术的にも贵重な存在である。外装(柄・鞘)は、黒漆涂りの上に平文(ひょうもん、金银などの薄板を贴って文様を表す技法)や金铜透かし雕りの金具で装饰を施した古様な技法によるもので、正仓院の“金银钿荘唐大刀”の流れを汲むものとされる。
フツノミタマは‘古事记’‘日本书纪’でも“韴霊剣”や“布都御魂剣”等として言及があり、神武天皇に际してタケミカヅチから高仓下を通じてイワレビコ(神武天皇)に下された神剣としている。この剣は、神武天皇即位后に宫中に祀られ、のち崇神天皇の御世に石上神宫(奈良県天理市)に迁され祀られたとされる[98]。鹿岛神宫に伝わるフツノミタマは、上记のように初代フツノミタマがついに鹿岛神の元に帰ることはなかったので、后世に改めて作られたものだという[99]。作刀に関しては、‘常陆国风土记’[原 1]にある砂铁から剣を作ったという记述との関连も指摘される[97]。
常陆帯
常陆帯(ひたちおび)は、神宫に伝わる神宝[100]。神功皇后が三韩征伐での鹿岛神の守护に感谢して奉纳した腹帯であるとされる[101]。古くより本殿深く箱の中に纳められており、现在も见ることはできない[100]。
この伝承に基づき、かつて1月14日には“常陆帯神事”が行われていた[14]。祭事では、男女の名を记した帯の先を神前に供え、神主がそれを结び合わせ结婚が占われたという[10]。‘源氏物语’竹河の巻や‘古今和歌六帖’にも记载が见え[14]、その平安时代当时においてもすでに古い习俗と见なされている[10]。その后、この祭事は妊妇に腹帯を授ける安产信仰に変化していった[14]。
文化财
国宝
重要文化财(国指定)
- 本殿、石の间、拝殿、币殿 4栋(附 栋札2枚)(建造物) - 本殿は明治34年3月27日指定、他3栋は明治44年4月17日指定[50][注 5]。
- 摂社奥宫本殿(附 栋札1枚)(建造物) - 明治34年3月27日指定[102][75]。
- 楼门(建造物) - 昭和41年6月11日指定[55]。
- 仮殿(建造物) - 昭和51年5月20日指定[54]。
- 梅竹莳絵鞍(附 四手莳絵居木一双)(工芸品)
国の史迹
- 鹿岛神宫境内 附 郡家迹 - 指定対象は次の4か所。昭和61年8月4日指定、平成元年・11年・13年・17年・20年に追加指定[32]。
- 鹿岛神宫境内
- 摂社坂戸神社境内
- 摂社沼尾神社境内
- 鹿岛郡家迹
选択无形民俗文化财(国选択)
- 鹿岛の祭头祭 - 昭和51年12月25日选択[93]。
茨城県指定文化财
- 有形文化财
- 木造狛犬 2躯(雕刻)
- 江戸时代初期、元和5年(1619年)の作。寄せ木造り、漆箔で、高さは阿型が77.3センチメートル、吽型が80.3センチメートル。昭和33年7月23日指定[105]。
- 木造狛犬 2躯(雕刻)
- 镰仓时代の作。寄せ木造り、漆箔で、高さは各72センチメートル。昭和40年2月24日指定[106]。
- 黒漆螺钿莳絵台 1基(工芸品)
- 镰仓时代末期。昭和33年7月23日指定[107]。
- 铜印 1颗(工芸品)
- 陶制狛犬 3躯(工芸品)
- 室町时代の作と见られる。昭和33年7月23日指定[109]。
- 石造灯笼 1基(工芸品)
- 江戸时代初期、元和5年(1619年)の作。搭高256センチメートル。昭和33年7月23日指定[110]。
- 铙 1口(工芸品)
- 平安时代前半の作の三钴铙。昭和33年7月23日指定[111]。
- 军配 1口(工芸品)
- 室町时代の作。昭和33年7月23日指定[112]。
- 太刀 铭景安 1口(工芸品)
- 草花双鸟円镜 1面(工芸品)
- 室町时代の作。昭和45年(1970年)に盗难に遭った(未発见)。昭和40年2月24日指定[114]。
- 十一面観音御正体 1面(工芸品)
- 镰仓时代初期の作。昭和45年(1970年)に盗难に遭った(未発见)。昭和40年2月24日指定[115]。
- 鹿岛神宫文书 18巻(古文书)
- 木造狛犬 2躯(雕刻)
- 天然记念物
- 鹿岛神宫树丛 - 昭和38年8月23日指定[47]。
鹿嶋市指定文化财
- 有形文化财
- 楼门回廊 2栋(建造物) - 昭和57年3月20日指定。
また、神幸祭で奉纳される各地区の山车数台が鹿嶋市指定有形文化财に指定されている。
その他
関系事项
鹿岛郡衙
鹿岛郡(香岛郡)は、‘常陆国风土记’[原 1]によれば下総国の海上国造の部内及び那贺国造の部内からそれぞれ割き、当初より神郡として建郡されたという[3]。古郡衙の遗构は见つかっておらず[3]、神郡の郡衙であるので神社のそばであるとも推察される[10]。
8世纪以降の新郡衙迹は、神宫の南约1.5kmに位置する鹿嶋市宫中の神野向遗迹(かのむかいいせき、Template:ウィキ座标)で発见された。遗构は、8世纪前半から10世纪初め顷までの郡庁内郭・厨家相当施设・正仓院等で构成されている。この场所は‘常陆国风土记’[原 1]の“其の社の南”に郡家があるという记载とも一致する。遗迹は鹿岛神宫境内の附(つけたり)として国の史迹に指定されている[117][32]。
鹿岛苗裔神
鹿岛神宫は东国开拓の拠点であったことから、その苗裔神(びょうえいしん)すなわち御子神が各地に形成された[28]。‘常陆国风土记’[原 4]の时期には、すでに行方郡に分祠の存在が记されている[28]。
‘日本三代実录’の贞観8年(866年)の记事[原 15]では、神宫司の言として陆奥国に苗裔神が38社あると记载されている[28]。その内訳は次に示す通りであるが、具体的な社名は记されていない[43]。
また同记事では、陆奥国での鹿岛神の祟りが甚だしいので嘉祥元年(848年)に宫司らが奉币に向かったが、陆奥国入国は许されなかったという[43]。これに関して、神宫の祭祀氏族が代わったため分社侧が抵抗したと解釈する说がある[43]。
さらに‘延喜式’神名帐[原 16]では、陆奥国条に“鹿岛”を冠する神社として次の8社の记载がある(“陆奥国の式内社一覧”参照)。
延喜式 | 比定社 | |||
---|---|---|---|---|
郡名 | 社名 | 社名 | 所在地 | 座标 |
黒川郡 | 鹿岛天足别神社 | 鹿岛天足别神社 | 宫城県黒川郡富谷町大亀 | Template:ウィキ座标 |
曰理郡 | 鹿岛伊都乃比気神社 | (论)鹿岛绪名太神社 | 宫城県亘理郡亘理町逢隈小山 | Template:ウィキ座标 |
(论)鹿岛天足和気神社 | 宫城県亘理郡亘理町逢隈鹿岛 | Template:ウィキ座标 | ||
曰理郡 | 鹿岛绪名太神社 | (论)鹿岛绪名太神社 | 宫城県亘理郡亘理町逢隈小山 | (前记) |
(论)鹿岛天足和気神社 | 宫城県亘理郡亘理町逢隈鹿岛 | (前记) | ||
曰理郡 | 鹿岛天足和気神社 | (论)鹿岛天足和気神社 | 宫城県亘理郡亘理町逢隈鹿岛 | (前记) |
信夫郡 | 鹿岛神社 | (论)鹿岛神社 | 福岛県福岛市鸟谷野 | Template:ウィキ座标 |
(论)鹿岛神社 | 福岛県福岛市小田 | Template:ウィキ座标 | ||
(论)鹿岛神社 | 福岛県福岛市冈岛 | Template:ウィキ座标 | ||
(论)鹿岛神社 | 福岛県伊达郡国见町 | Template:ウィキ座标 | ||
磐城郡 | 鹿岛神社 | 鹿岛神社 | 福岛県いわき市常磐上矢田町 | Template:ウィキ座标 |
牡鹿郡 | 鹿岛御児神社 | 鹿岛御児神社 | 宫城県石巻市日和が丘 | Template:ウィキ座标 |
行方郡 | 鹿岛御子神社 | 鹿岛御子神社 | 福岛県南相马市鹿岛区鹿岛 | Template:ウィキ座标 |
以上の记载から、鹿岛神が海岸沿いを北上して牡鹿郡(现・宫城県石巻市付近)まで进出した様子が见える[28]。またその社名から、鹿岛神の御子神として“天足别命”の存在も推测される[118]。‘延喜式’神名帐[原 16]では香取神宫の苗裔神2社も见えるが[119]、これら鹿岛・香取苗裔神の存在は、大和朝廷の势力が海岸沿いに北进する际に鹿岛・香取両神の神威を仰いだことによると解釈されている[28]。これに関连する事象として、陆奥国一宫の盐灶神社(宫城県塩灶市、Template:ウィキ座标)においても武瓮槌・経津主両神が祀られている[28]。なお、鹿岛・香取の分布には差があり、香取苗裔神2社は鹿岛を飞び越す位置に镇座する[120]。このことから、初期段阶には鹿岛は外海(虾夷)、香取は内海(香取海)を志向したとし、その后両神の神威が逆転したとする说がある[120]。
そのほか、后世には武神としての崇敬により各地に鹿岛神が勧请され、旧常陆国地域を中心として全国に多くの分祠が形成された[26](详しくは“鹿岛神社”を参照)。
鹿岛七不思议
鹿岛神宫には“七不思议”と呼ばれるものがあり、次の7项目が挙げられる[14]。
- 要石
- 御手洗池の水深
- 末无川 - 境外の高天原で涌出した水の行方が辿れなくなるという[121]。
- 境内三笠山の藤の花 - 藤の多く咲く年は豊作、少ない年は凶作という[121]。
- 鹿岛滩の海鸣 - (特に奥宫付近において)波の音が北の方に闻こえる时は晴れ、南に响く时は雨が降るという[121]。
- 根上りの松 - 神宫の松は几度伐っても芽が出て枯れないという[121]。
- 松の箸 - 神宫の松で作った箸からは脂が出ないという[121]。
その他
- 鹿岛神宫寺
- “かしまじんぐうじ”。かつて存在した鹿岛神宫の神宫寺。
- 嘉祥3年(850年)[原 35]・天安3年(859年)[原 36]の太政官符によると、天平胜宝年间(749年-757年)に鹿岛郡大领・中臣连千徳、元宫司・中臣鹿岛连大宗(たいそう)、修行僧・満愿らにより创建されたといい、承和4年(837年)には定额寺に列せられたという[14]。南北朝时代には别当寺として神宫に深く関与した[14]。
- 寺はたびたび移転して江戸时代には新町にあったといい、真言宗仁和寺の末寺として“鹿岛山”を山号とし、釈迦如来を本尊とした[11]。门徒寺を100近く有する有力寺院であったが、幕末になり文久3年(1863年)に水戸天狗党によって、また元治元年(1864年)には正义队によって荒廃、明治元年(1868年)10月に廃寺となった[122]。
- このほか、神宫関系の寺では広徳寺・护国院・正等寺・普済寺・安居寺・根本寺・凉泉寺・五台院等があったが、これらのうちで护国院のみ现存している[26]。
- 鹿岛立
- “かしまだち”。“旅立ち”や“门出”を意味する名词で[123]、鹿岛神宫に由来するとされる。鹿岛神が国土を平定したことからとも、防人・武士が旅立ちで无事を鹿岛神宫に祈愿したことからともいわれる[123]。
- 関连して、防人が鹿岛神に祈った歌として‘万叶集’の次の歌[原 37]が知られる[14]。
“ | 天平胜宝7年2月、相替遣筑紫诸国防人等歌 霰降り 鹿岛の神を 祈りつつ 皇御军に 我れは来にしを あられふり かしまのかみを いのりつつ すめらみくさに われはきにしを |
” |
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考证
遗迹・古坟
鹿岛周辺では多くの縄文时代遗迹は见つかっているが、弥生时代の遗迹は数个所程度にとどまっている[125]。古坟时代に入っても古い古坟は见つかっておらず、神宫境内における祭祀遗物でも、発掘された土器は6世纪以降のものとされている[23]。
神宫に関する古坟としては、北东方2キロメートルにおいて前方后円坟17基を含む古坟100基以上[126]からなる宫中野古坟群(きゅうちゅうのこふんぐん)が知られる。同古坟群は6世纪から7世纪顷の筑造とされ、中でも夫妇冢古坟(鹿嶋市指定史迹、Template:ウィキ座标)は、古坟群中最大规模の坟丘长约108メートルの前方后円坟である[126]。その他の主要古坟には、帆立贝式前方后円坟の大冢古坟(敕使冢)もある。この古坟群は鹿岛地方の首长墓群と见られており[126]、鹿岛神宫との関系も指摘されている[127]。
また、神宫の东方の高天原には“鬼冢”という全长80メートルの古坟があるほか[128]、潮来市大生にある大生古坟群も鹿岛神宫との関系が指摘される[43]。
本源地について
鹿岛神宫は要冲に位置しており、ヤマト政権の东国支配の拠点のため、かなり早い段阶でその势力下に入ったとされる[45]。‘常陆国风土记’[原 1]によれば、鹿岛神宫は“香岛の天の大神”と记され、次の三社の総称であるという[10]。
- 天の大神の社(あめのおおかみのやしろ) - 现在の鹿岛神宫(本宫)。
- 坂戸の社(さかとのやしろ) - 现在の境外摂社坂戸神社。
- 沼尾の社(ぬまおのやしろ) - 现在の境外摂社沼尾神社。
このように古くは三社から成る神社であったとされ、‘常陆国风土记’[原 1]には景行天皇年间に舟3只を奉献したという记述(御船祭起源说话)もある[10]。
これら三社のうち、本源地を“天の大神の社”以外に取る说が古くより提唱されている。沼尾社を本源とする说によると、かつて付近にあった“沼尾池”を神として祀っていたと推测される[14][10]。その根拠として、‘常陆国风土记’[原 1]で沼尾池を“天から流れてきた水がたまった沼”という表现があり、天から降った神であろうと见られている[14][10]。これに対して坂戸社とする说の根拠には、‘常陆国风土记’における“坂戸・沼尾”という书き顺や、神社近くにあるべき古郡衙が坂戸社の镇座する“山之上”に推定されることが挙げられる[10]。この中で社名“坂戸”の意味について、“さか”を“境”と见て、“虾夷地への境界・入り口”を意味するとの指摘がある[10]。
祭神・祭祀氏族について
鹿岛神宫の祭祀氏族としては、中臣氏が知られている。史书に见える顷からすでに中臣氏が活跃を见せており、中臣氏から出た藤原氏も氏神として神宫を崇敬した。中臣氏が神宫を管掌するようになったのは、朝廷の东国経営强化の要请から中央祭祀を司る中臣氏が祀官を再编したためとも[14]、原始祭祀氏族の没落によるためともいわれる[23]。その掌握时期についても、藤原镰足(614年-669年)の常陆国封戸获得の时点とする说[23]、中臣鹿岛赐姓の时点(746年)とする说がある[43]。中臣氏掌握以前の祭祀氏族に関しては、次の说がある。
- 多氏说
- 中臣氏以前の氏族を多氏(おおうじ)に见る说で、根拠として、“鹿岛の本宫”ともいわれる大生神社(潮来市大生、Template:ウィキ座标)の存在がある[43]。その社名“おおう”は、多氏一族が居住したことによると伝えられ、奈良の多神社(多氏本拠地)からの勧请という伝承もある。また大生神社の例祭には鹿岛神宫から物忌が出舆したとされるが、物忌は神宫祭事のうち年6回しか携わることはなく(神职节)、その1つを境外の大生神社が占めていたことは破格の扱いといえる[43][129]。大生神社に関する古文书には、春日大社创建を契机として鹿岛神宫が性格を変えたこと、それに大生神社が関わっていることが记载されている[43]。この大生神社周辺には古坟时代中期(5世纪)の古坟群(大生古坟群)が残っており、神社祭祀氏族の墓とされ[130]、各前方后円坟がいずれも大生神社または鹿岛神宫を向いているという指摘もある[43]。
- 多氏については、鹿岛郡を割く以前の那珂地域を治めた仲国造や、鹿岛苗裔神が特に多い陆奥国磐城郡の国造(道奥石城国造)が、いずれも多氏祖の神八井耳命系であったことも并せて指摘される[43]。
- 物部氏说
- 物部氏を原始祭祀氏族とする说によれば、タケミカヅチ・韴霊剣・石上神宫の関系から、タケミカヅチは物部氏が奉じた神とされる[23]。この中で、5世纪から6世纪顷に物部氏はフツノミタマを奉じて各地に远征したといい、6世纪に発生した武蔵国造の乱と东国の镇守设定の要请が合致すると说明される[23]。
また、鹿岛神宫の祭神は古くよりタケミカヅチとされているが、‘古事记’・‘日本书纪’・‘常陆国风土记’には祭神をタケミカヅチとする直接的な言及はなく、初见は‘古语拾遗’(807年成立)または‘延喜式’所収の“春日祭祝词”(768年から927年に成立)にまで下る(“祭神”节)。その祭神设定の経纬としては、ヤマト政権が东国経営を进めるに伴い、原始祭祀の神に対して中臣氏がタケミカヅチを代位したという见方がなされている[131][14]。一方、上记のようにタケミカヅチは物部氏の祀る神という见方や[23]、鹿岛に残る“ミカ = 瓮”伝承と神名との指摘もある[10]。いずれにしても、タケミカヅチが常陆に根付いたのは、8世纪をそう溯らないと见られている[132]。
そのほか、香取神宫祭神の“イハヒヌシ(イワイヌシ、伊波比主・斎主)”という别称から、鹿岛・香取両神宫について“鹿岛 = 朝廷の神”に対する“香取 = 在地の神(奉仕する神)”という、伊势神宫の内宫・外宫に似た祭祀関系の指摘もある[120][23]。
现地情报
所在地
付属施设
- 宝物馆 - 开馆时间:午前9时から午后4时。直刀(国宝)等の宝物を展示。
交通アクセス
- 铁道
- 高速バス
- 车
周辺
脚注
- ^ 1.0 1.1 春日社创建の正确な年号は明らかではない。“神护景云2年”は春日大社の社记に基づくもので、‘日本三代実录’元庆8年8月26日条を支证とする(‘国史大辞典’春日大社项)。
- ^ 平安时代以前、“神宫”の呼称使用の他例には‘古事记’‘日本书纪’で“石上神宫”があるが、‘延喜式’神名帐では“石上坐布留御魂神社”と记される (冈田精司 & 2011年)。
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- ^ “日本三大楼门”は、鹿岛神宫のほか阿苏神社(熊本県阿苏市)、筥崎宫(福冈県福冈市)の楼门とされる。
- ^ 昭和29年9月17日付けで“鹿岛神宫本殿”と“鹿岛神宫拝殿、币殿、石の间”の2件の重要文化财を统合し、“鹿岛神宫4栋”とした。参照:‘国宝・重要文化财建造物官报告示’、文化财建造物保存技术协会、1996; ‘国宝・重要文化财建造物目录’、第一法规、1990
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- ^ 和田文夫 “鹿岛御子神社”‘日本の神々 -神社と圣地- 12 东北・北海道’ 谷川健一编、白水社、1984年、p. 31。
- ^ “香取神宫#香取苗裔神”参照。
- ^ 120.0 120.1 120.2 香取神宫(神々) & 1984年.
- ^ 121.0 121.1 121.2 121.3 121.4 东実 & 2000年,第192-193页.
- ^ 鹿岛神宫寺(国史) & 1983年.
- ^ 123.0 123.1 ‘デジタル大辞泉’鹿岛立ち项等(コトバンク<朝日新闻社>より)。
- ^ 124.0 124.1 124.2 鹿岛使(国史) & 1983年.
- ^ 东実 & 2000年,第85页.
- ^ 126.0 126.1 126.2 夫妇冢古坟史迹说明板。
- ^ ‘茨城県の地名’(平凡社)宫中野古坟群项。
- ^ 东実 & 2000年,第92页.
- ^ ‘茨城県の地名’(平凡社)大生神社项。
- ^ 大生古坟群(茨城県教育委员会)。
- ^ 鹿岛大神(国史) & 1983年.
- ^ 泷音能之编‘风土记谜解き散歩’(新人物文库)pp. 124-125。
参考文献・サイト
- 神社由绪书
- 境内说明板
史料
- ‘常陆国风土记’香岛郡条ほか
- ‘鹿岛宫社例伝记’、‘鹿岛宫年中行事’
- ‘鹿岛宫社例伝记’は镰仓时代、‘鹿岛宫年中行事’は室町时代。
- 両书とも塙保己一编‘続群书类従 第3辑ノ下 神祇部’(続群书类従完成会、1924年-1926年、国立国会図书馆デジタルコレクション)30-41コマ参照。
书籍
- 鹿岛神宫発行书籍
- 鹿岛神宫社务所编 (编). 新鹿島神宮誌 改訂版. 鹿岛神宫社务所. 2004. 已忽略文本“和书” (帮助)
- 百科事典
- 国史大辞典 第3巻. 吉川弘文馆. 1983. ISBN 464200503X. 已忽略文本“和书” (帮助)
- 国史大辞典 第9巻. 吉川弘文馆. 1988. ISBN 4642005099. 已忽略文本“和书” (帮助)
- 松前健“建御雷神”。
- 日本歴史地名大系 8 茨城県の地名. 平凡社. 1982. ISBN 4582490085. 已忽略文本“和书” (帮助)
- “鹿岛郡”、“鹿岛神宫”。
- 角川日本地名大辞典 8 茨城県. 角川书店. 1983. ISBN 4040010809. 已忽略文本“和书” (帮助)
- “鹿岛郡”、“鹿岛神宫”。
- その他书籍
- 沼部春友. 鹿嶋神宮. 式内社研究会编 (编). 式内社調査報告 第11巻. 皇学馆大学出版部. 1976. 已忽略文本“和书” (帮助)
- 谷川健一编 (编). 日本の神々 -神社と聖地- 11 関東. 白水社. 1984. ISBN 4560025118. 已忽略文本“和书” (帮助)
- 大和岩雄“香取神宫”、大和岩雄“鹿岛神宫”、大和岩雄“大生神社”。
- 东実. 鹿島神宮 改訂版. 学生社. 2000. ISBN 4311407173. 已忽略文本“和书” (帮助) - 著者は元宫司。
- 中世诸国一宫制研究会编 (编). 中世諸国一宮制の基礎的研究. 岩田书院. 2000. ISBN 978-4872941708. 已忽略文本“和书” (帮助)
- 冈田精司. 6 東国の鎮守 <鹿島・香取神宮>. 新編 神社の古代史. 学生社. 2011. ISBN 4311203022 请检查
|isbn=
值 (帮助). 已忽略文本“和书” (帮助) - 国史跡鹿島神宮境内附郡家跡 -鹿島神宮祈祷殿・社務所建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-(鹿嶋市の文化財 第144集). 鹿嶋市文化スポーツ振兴事业団. 2012. 已忽略文本“和书” (帮助)
- 久信田喜一. 鹿島神宮. ‘历史読本’编集部编 (编). 神社の古代史(新人物文庫). 中経出版. 2014. ISBN 978-4046001368. 已忽略文本“和书” (帮助)
论文
- 藤沢彰. 鹿島神宮の祭儀と空間構成について. 日本建筑学会计画系论文集 (社団法人日本建筑学会). 1994-05-30, 59: 209–210. 已忽略文本“和书” (帮助); 已忽略未知参数
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(帮助) - 上野贞文. 鹿島神宮 御船祭. 仪礼文化ニュース (仪礼文化学会). 2002-09, 127 [2014-03-02]. 已忽略文本“和书” (帮助)
サイト
- 鹿岛神宫. 常陸国一之宮 鹿島神宮. [2014-06-17].
- 鹿島神宮(常陸国鹿島郡). 国学院大学21世纪COEプログラム“神道・神社史料集成”. [2014-01-25].
関连文献
- 北条时邻 ‘鹿岛志’ 1823年。
- ‘古事类苑’ 神宫司庁编、鹿岛神宫项。
- ‘古事类苑 第9册’(国立国会図书馆デジタルコレクション)288-313コマ参照。
- ‘鹿岛神宫志’ 冈泰雄编、鹿岛神宫社务所、1933年。
関连项目
神宫に由来
神宫の鹿に由来
- 鹿岛アントラーズ - チーム名及びマスコットキャラクターは、神宫の鹿にちなむものである。
外部リンク
- 常陆国一之宫 鹿岛神宫 - 公式サイト
- 鹿岛神宫 - 鹿嶋市観光协会
- 鹿岛神宫 - 茨城県観光物产协会“観光いばらき”
- 鹿岛神宫 - 茨城県神社庁
- 鹿岛神宫 - 国学院大学21世纪COEプログラム“神道・神社史料集成”